Archeologue
  
第2号


2004年8月1日発行
三重大学考古学研究室・山中章研究室
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 天武・聖武天皇と久留倍遺跡
  
〜なぜ久留倍遺跡を保護・保存しなければならないのか〜

三重県四日市市の北西部は古代の行政区画では朝明郡訓覇郷(あさけぐんくるべごう)と呼ばれていた。 この地に国道一号線の渋滞を避けるために計画されたのが北勢バイパスである。 三岐鉄道大矢知駅から南へ一q足らず、二〇分も歩くと右手に小高い丘が出現する。久留倍遺跡である。 遺跡名は古代の郷名と同じ音「くるべ」の現在地名からとられた。

 調査が始まって間もなく、奈良時代後半に建設された八〜九棟の倉庫群と、 これを囲う東西六九m、南北九九mの堀跡(正倉院)が発見された。遺跡のすぐ北西には長倉神社という式内社(平安時代以前からある古い神社)もある。 「くるべ」という音が何に由来するのかはこれまで明確ではなかったが、遺跡の発見によって「くらべ」即ち「倉部」による可能性が高まった。 今から一二〇〇年以上も昔から、この地は倉と深いつながりがあることで知られていたのである。 全国には当時の税金である租(そ:収穫された脱穀以前の米)を納めるための「正倉」が建設されたことが知られている。 久留倍遺跡の倉庫群は朝明郡の正倉だったのである。

 調査が進むに従って、正倉が建設される前に、 郡の政治や儀式を行う施設・政庁、役人達が日常業務をする事務棟や役所の長官などが生活する館(たち)ではないかと推測される施設のあることがわかってきた。 奈良時代初めから平安時代にかけて久留倍遺跡は朝明郡の中心だったのである。

 実は伊勢国朝明郡は古代史では大変有名な郡である。 大海人皇子(後の天武天皇)と聖武天皇が訪れたことが記録(『日本書紀』や『続日本紀』)に残されているからだ。 大海人皇子は六七二年の壬申の乱に際し、ここ朝明郡で伊勢神宮を遙拝し、戦勝祈願をした。 戦後、天武天皇が伊勢神宮を手厚く祀ったことは言うまでもない。

 天武の曾孫に当たる聖武天皇は偉大な祖先として天武を崇敬していた。 七四〇年、突如として平城京を後にした聖武は、二ヶ月にわたって伊賀、伊勢、美濃、近江、山城の地を旅する。 曾祖父の事跡を訪ね、自らの新しい政策を立てることが目的だったという。もちろん朝明郡にも宿泊した。朝明頓宮(かりみや)である。

 久留倍遺跡から発見された遺跡群は丁度この時期のものである。 政庁は全国にも例のない東向きである。東西四一m、南北五二mの範囲が板塀によって囲われ、西端中央には正殿、東端中央には八脚門という格調の高い門が設けられ、 門の外両側には楼閣が建てられていた。遺跡に立てば目の前に伊勢湾が広がる。南に目をやると伊勢神宮の地を望むことができる。 正倉ができる前に政庁の建物が建て替えられ、一時的に堀で囲われた広大な空間が出現するが、この時期が聖武天皇の頃である。 聖武天皇の行幸には大伴家持が随行し『万葉集』に和歌を残している。狭残(さざ)の行宮(かりみや)で詠んだ歌には

 御食国 志摩の海人ならし ま熊野の 小船に乗りて 沖辺漕ぐ見ゆ

(御食国の 志摩の海人ではないか 小船に乗って 沖辺を漕いでいる)

とある。これまで「狭残行宮」がどこにあるのかわからなかったが、 久留倍遺跡に立てば遙か志摩の地までも眺めることができる。いや、ここ以外では海人が小船で行く風景を見ることは不可能である。 久留倍遺跡こそ狭残行宮(朝明頓宮の別名)だったのではないのだろうか。そんな思いを彷彿とさせる遺跡である。

部分的な保存が取りざたされているようだが、遺跡の上を道路の高架橋が横切るようでは興醒めである。 道路は地下にトンネルで通し、遺跡は国の史跡として残し、長倉神社や遺跡下を通る古道なども含めてこの地一帯を「万葉歴史ゾーン」として整備活用すれば、 市民の憩いの場としていつまでも親しまれるのではないだろうか。 考古学はもちろんのこと、古代史学、歴史地理学、建築史学、そして日本文学の多くの研究者の切なる思いである。
 

 
久留倍遺跡の正倉域から伊勢湾を見る(西から東を眺める)


 
正倉院東の堀を視察する調査指導委員会委員メンバー(南から)


 
正倉の発見状況(東から)