大仏開眼
〜伊勢国と水銀〜



 奈良国立博物館で現在「大仏開眼1250」と題した展示が大々的に行われている。開眼とは大仏に目を点じ、魂を入れて佛とするための儀式である。 天平勝宝四(七五二)年四月九日、インドからやってきた高僧・菩提僊那ぼだいせんなが導師となり、 聖武太上天皇だじょうてんのう、 光明皇太后こうたいごう、孝謙天皇が持つ筆で目が入れられたのである。 一万人の人々を集め、内外の諸楽を奏で、大々的に行われたといわれる。しかし、実はこの時大仏はまだ完全にはでき上げっていなかった。 形は何とか完成したものの、表面に塗る予定の金が顔の一部にしか施されていなかったのである。

 大仏は銅とすずの合金である。黄金色に光り輝かせるには金が必要であった。 しかし、過去に日本で金が発見されたことはなかった。最悪の場合新羅や唐から輸入せざるを得ない。全国に黄金探索が命じられた。 百済王敬福くだらのこにきしきょうふくから朗報が届いたのは天平二一(七四九)年のことであった。 陸奥国小田郡(現宮城県)からそれは発見された。現在も同地には黄金山神社が建つ。

 大仏に用いられた金は総量四四〇キログラムだったと記されている。 果たして全てが宮城県産であったかどうかは不明であるが、聖武が大いに喜んだことはいうまでもない。 間もなく鍍金ときんの準備が整えられた。 しかし鍍金にはもう一つ大事な材料が必要であった。水銀である。 金を水銀に溶かし込みアマルガム状(ガムのような状態)にした上で大仏の表面に塗る。 炭火などを用いて表面を熱して水銀を蒸発させると、青銅の上に固定された金が現れる。 これを鉄ヘラなどで丹念に磨き上げ、ようやく黄金の輝きが生まれるのであった。

 水銀は古くから需要があり、古墳時代前期の竪穴式石槨には大量の水銀朱が用いられた。その有力な生産地が伊勢国であった。 『延喜式』と呼ばれる平安時代に編纂された史料によると、伊勢国からは毎年八〇〇斤(五四〇キログラム:一斤=約六七五グラム) 以上の水銀が収められるようになっていた。大仏に必要とされた水銀は三六六三斤(約二.四トン)にも及んだ。 伊勢国からの四〜五年分である。しかしこれなくして大仏が光り輝くことはなかった。

 ところで、聖武天皇に大仏造営決意させたのは、天平十二(七四〇)年河内国知識寺へ行幸したときに見た盧舎那仏だという。 しかしそれを十六メートルを超える巨大な仏像にしようと決心させたのは、 唐代の有名な僧玄奘げんじょう(三蔵法師)の著した『大唐西域記』の記述であった。 そこには西域にあるバーミヤン国王が熱心な仏教信者で、三十数メートルの巨大な仏像を造っていたと記されていた。 大仏造営には様々な国や地域が関係していたのである。

 残念なことに大仏の原形ともいえる仏像は昨年、混迷する政治状況の中でタリバーン政権によって破壊され今はない。 いつの日かアフガニスタンの人々が東大寺大仏を訪れ、失われた祖国の偉業に想いはせることを願わざるを得ない。

(2002.5.19 伊勢新聞掲載)


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