「日本」を意識する
〜「ニホン」誕生と壬申の乱〜



 六月五日の朝刊各紙は、W杯日本対ベルギーの試合で、日本が引き分けたにもかかわらず「歴史的な勝ち点1」の価値を大きく報道した。 さらに九日には対ロシア戦での勝利で新聞はほぼサッカーに乗っ取られた感があった。

 かつて全国津々浦々までいずれの新聞も、揃ってカラーでスポーツの記事を一面トップで報じたことがあっただろうか。 かくいう私も、ベルギー戦はいつもなら夜中までいる大学の研究室をそそくさと抜けだし、後半の四五分をテレビにかじりついて観戦した。 画面には客席を埋め尽くしたブルーの装いをした若者?達が「ニッポン!ニッポン!」と連呼する姿が映し出された。 あちこちで日の丸が振られ、鼻の周りを赤く、頬を白く塗った異様な風体の観客が総立ちで応援していた。 そしてテレビのこちら側にいる私も、いつしかそんな光景に大した違和感も感じることなく、稲本の、中田の、楢崎の動きに一喜一憂した。 我々が「日本人」「日本国民」であることを否が応でも思い知らされた瞬間であった。

 ところで今日当たり前に用いている「日本」という国名は、いつ頃から使い始められたのであろうか。

 吉田孝『日本の誕生』(岩波新書1997年)によれば、中国に対して「日本」を用いた最初が、 大宝元(七〇一)年に任命された遣唐使代表粟田真人(あわたのまひと)であったという。一行は翌年、揚子江近くの海岸にたどり着いた。 通報を受けた中国の役人が「どこの国から来たのか」と質問したところ、真人は「日本だ」と答えた。 それまで、「倭」国わのくには知られていても「日本」国等聞いたことがない。 首都長安でも取り調べが続けられた。 中国の歴史書に「日本国は倭国の別種なり…」等と記されているように、日本側の説明が理解されたのか、どうも怪しい。 しかし何とかその場を凌ぎ、「日本」国名を勝ち取ったことが次の歌から想像できる。

 いざ子ども 早く日本へ 大伴の御津の浜松 待ち恋ひぬらむ (『万葉集』)

同じ遣唐使に加わっていた『貧窮問答歌』で著名な山上憶良が、帰国を前にした宴席で、 「日本」を獲得したはやる気持ちを抑えきれずに謳ったものだという。それから一三〇〇年、真人や憶良がテレビを見たら仰天したことだろう。

 なお、国内で正式に「日本」を使い始めたのは天武天皇の時だという。 壬申の乱に際し朝明あさけ川のほとりで伊勢神宮に向かい天照大神に戦勝を祈願したことが契機だと言う。 「日本」誕生には、伊勢国が深く関わっていたのである。

(2002.6.16 伊勢新聞掲載)


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