河口の頓宮
〜聖武・家持の宿を求めて〜



 八月四日の新聞各紙は滋賀県大津市で「聖武天皇の禾津頓宮あわずのとんぐう(行幸時の仮宮)発見!」のニュースを伝えた。 現地をみて驚いたのは建物規模の壮大さであった。直径四〇aもある柱跡。柱を固定するための一辺一.六b、深さ一bの穴。 柱跡は三b間隔で東西に八つ。以下南へ三b毎に平行して柱跡があり、計三四の柱跡群となる。 発見された土器や周辺の状況から、建物は奈良時代の中頃のものと推定できた。当時の超一級の施設である。 誰が何のために建てたのか?考古学者の楽しい推理世界の始まりである。

 奈良時代の歴史を伝える『続日本紀』には、天平十二(七四〇)年十月から十二月にかけての、聖武天皇の奇妙な旅の記録が記されている。 それは十月十九日、造伊勢国行宮司(先発して宿泊施設を建設する係)の任命記事から始まる。 十日後の二十九日、四百人もの騎兵を引き連れて天皇は平城京を出発した。実はこの旅に大伴家持も従者として従っていた。 伊賀の名張から青山を経て、伊勢国一志郡河口頓宮(白山町川口:関宮とも呼んだ)に到着したのが十一月二日。 直ちに伊勢神宮に使者を遣わすと、翌日、九州から朗報が届いた。八月末から九州の大宰府で起こった藤原広嗣の乱が鎮圧されたというのである。 朗報に安心したのか、関宮では和遅野(現白山町二本木)で鷹狩りをして遊ぶなど、滞在は十日にも及んだ。 誰しも平城京に引き返すものだと思っていた十二日、天皇は一志、赤坂(鈴鹿)、朝明(四日市)と伊勢湾岸の北上を命ずる。 十二月一日に美濃国不破頓宮(岐阜県垂井町)で騎兵を解散させると、近江横川(滋賀県米原町)を経て琵琶湖沿岸を南下し、 野洲から禾津に入ったのが十一日のことであった。禾津滞在はわずか三日であった。 先の柱跡はまさにこの時期にあたる。発見地の一帯は粟津あわずと呼ばれている。 巨大な柱跡こそ天皇が滞在した禾津頓宮だというのである。誰もが思ったことは、 「エッ、たった三日の宿泊のためにこんなデカイ建物を…!」という驚きであった。

 『万葉集』には天皇に同行した人々の歌が残され、旅の思いを知ることができる。

  河口の 野辺に廬て 夜の経ければ 妹が手本し 思ほゆるかも (一〇二九)

大伴家持が、河口頓宮の粗末ないおりで、大和に残した新妻と手枕をして寝た夜を想いつつ詠んだ歌という。 八月二十日から三重大学考古学研究室では、白山町教育委員会と河口頓宮跡推定地の一角で、初めての小さな発掘に挑戦する。 「家持」と書いた土器や従者小屋が発見されることを夢見て…。

(2002.8.18 伊勢新聞掲載)


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