供御くご人給にんきゅう
〜使い捨て食器・土師器の世界〜



 熱い思いで始めた一志郡白山町での第一回河口頓宮跡発掘調査は、残念ながら調査地が昭和初年の桑栽培によって激しく削り取られ、 古代の遺跡を発見するには至らなかった。 しかし、発掘調査期間中に実施した遺跡検討会によって、明瞭に遺跡のイメージを描くことができるようになった。 一番の成果は、現場の直ぐ西で三〇年前に実施されていた野田浦遺跡の遺物を再評価することができたことである。 最も注目されたのが「土師器の方が圧倒的におおく、須恵器は全体の一〇パーセントにもみたない」点であった。

 当時用いられていた食器には土師器と須恵器がある。土師器は素焼きの土器で軟らかく、食物を盛るのに使用された。 須恵器は登り窯で焼いた堅い土器で、液体を入れるのに適していた。 ところで、天皇が暮らし、まつりごとが行われていた都の中心部では食器の七割以上を土師器が占め、 中心部から離れ、下級官人達が暮らす町に行くほど須恵器の比率が高まることが知られている。 食べ物の種類が異なっていたことも原因の一つではあるが、給食用の食器は使い捨てられ、 家庭で私的に用いる場合は須恵器を使い回していたのである。今なら、「役人の無駄遣い!」と大きく新聞でやり玉に挙げられるに違いない。

 天皇の食べる食事を「供御くご」という。 三重県志摩地方は新鮮な魚介類を供御として提供する御食国みけつくにとされた。 同様にして全国各地から各種特産品が天皇の許へ届けられた。供御のお下がりが定着したのが給食である。 本来は「人給にんきゅう」とよばれ、必ずしも毎日あったわけではなさそうである。 「天皇の召し上がられた聖なる食べ物のお裾分けをいただいて、 役人達が天皇の許に結集してまつりごとを滞りなく遂行する」 ために配られた食事だったのである。もちろん食べ物だけではなくそれを盛る食器を含めた食事全体をいただくことに意味があった。 奈良時代になると給食が常態化し、中には「給食がまずい!」などと文句を言う輩まで出る始末であった。 本来ならこんな事を言う役人は「即刻クビ!」だったはずである。

 野田浦遺跡から発見された土器の中には、聖武天皇が伊勢へ行幸した頃に都ではやっていた食器が含まれている。 大半が土師器であったのも、まさに「みやこ文化」が突然河口にやってきたからである。 調査地一帯は頓宮のために給食を用意する厨房のあったところではなかったかと考えている。来年以降の調査に楽しみが残った。

(2002.9.15 伊勢新聞掲載)


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