雲出川ロマン紀行




 伊勢は海と川の国である。伊勢湾には豊かな漁業資源が眠り、川には素敵な名前が付けられ、幾つものロマン溢れる歴史が残されている。 雲出川もその一つである。

 雲出川の流域は古代の行政区画では一志郡いちしぐんにあたる。 伊勢国でも早くから中央の大和王権と強いつながりを持つ地域として知られ、久居駅の南にある「新家」という地名は、 古代大和の大豪族物部もののべ氏が管理した 皇室の直轄領・新家屯倉みやけにちなんだものではないかという意見がある。 6世紀に入り全国に設置された屯倉の代表的な一つが、いち早く伊勢の国、それも一志郡に建設されていたことになる。 最近舟形埴輪が発見されて一躍有名になった宝塚古墳は、大和の勢力が初めて伊勢国へ及んだことを示す証拠の古墳だという。 「新家」と宝塚古墳とは10qほどしか離れていない。

 古代になると通行はさらに活発になる。天武天皇により始められた斎王の制度や伊勢神宮の信奉という政策が関係している。 初代の斎王は天武の娘大来おおく皇女である。 彼女がとった道は不明だが、父・天武が壬申の乱に通ったのと同じように、 飛鳥から初瀬を経て名張にはいり、一志郡から斎宮へ至ったのではなかろうか。 現在も近鉄大阪線が通っているように、大和と伊勢湾とを結ぶ最短コースがこの一志郡を通るルートであった。 同じ頃、天皇は全国に寺の建設を命じる。一志郡にはさっそく高寺廃寺や、一志廃寺などが建設された。 文化、宗教の面でも一志郡は伊勢国をリードしていた。

 奈良時代になっても、740年の聖武天皇の伊勢行幸では、 川口に頓宮とんぐう(かりみや)が置かれた。 平安時代にはいると、整備が進み、斎王の行き帰りの道や宿所が確立する。 一志郡は斎王帰京の通路とされ、一志、川口には頓宮が設置された。

 この様な歴史を解明するにふさわしい遺跡が発見された。 久居市戸木へぎの上野遺跡である。 8世紀までのどかな農村にすぎなかった村の一角に突如、最新の住宅が建設される。 大きな倉庫も設けられ、その近くからは、当時都人が好んで用いたデザインの皿が発見された。 先の寺院周辺にも同じ時期の遺跡があり、同様の食器が見つかっている。 上野遺跡から見つかった遺構や遺物は、上流から運び込まれた物資の集積、中継地としての機能を想像させる。 今のところ平安時代の施設は発見されていないが、中世にはさらに大きな、現時点で日本一ともいえる集落が形成されている。 雲出川の水運を利用した交通の要所として役割は益々高まっていた。上野遺跡の調査から目が離せない。

(2001.7. 伊勢新聞掲載)


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