伊勢斎宮と中村野
〜国有地だった?飯野郡と多気郡〜



 三重県多気郡明和町に遺る斎宮は、都で政を行う天皇に代わって、その未婚の娘が伊勢神宮に奉仕するために派遣された施設である。 天武天皇の娘・大伯皇女がその初代斎王であったことは以前にも紹介した。 ところがどうしてこの地だったのか、なぜ伊勢神宮から少し離れた地が選ばれたのかについてはまだよくわかっていない。 今回はその謎解きに挑戦してみようと思う。

 天武天皇と伊勢とのつながりといえば壬申の乱である。 六七二年、天智天皇の子・大友皇子との間で繰り広げられた内乱は一ヶ月にも及び、天下を二分した大戦争となった。 いち早く伊勢に入り、鈴鹿、不破の二つの関を押さえた天武側が勝利を収めたことは余りによく知られている。 天武側が伊勢の拠点としたところが朝明(現在の四日市の南部か)であった。 このため伊勢北部には壬申の乱との関係を示すといわれる遺跡がたくさんある。

 ところが伊勢南部との関係は意外と少ない。大安寺の財産目録である『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、 天武・聖武両天皇は、伊勢国内から一三〇〇町歩(およそ野球場一三〇〇基分)もの土地を割いて大安寺へ施入したという。 特に伊勢北部、員弁郡、三重郡、鈴鹿郡、河曲郡、奄藝郡に集中するが、一箇所だけ伊勢中部の地がある。「飯野郡中村野」である。 中村野はどこか。

 平安時代の史料によると、空海が入ったことで知られる京都の東寺が飯野郡から多気郡にかけて広大な荘園を所有していることが知られる。 その一つ大国荘には「飯野郡中村里」が含まれている。史料には中村里に接して大安寺領があると明記されている。 天武天皇が大安寺に与えた中村野は東寺の中村里に近接した土地だった(あるいは中村野の一部が東寺領になった)のである。 中村里の位置は条里制の研究から明らかにされており、現在の松阪市南東隅の山添町東一帯とされる。斎宮の南西、櫛田川のほとりである。

 ところで、大国荘は、桓武天皇の娘・布施内親王の所領が死後東寺に施入されたものである。 郡界を接した多気郡多気町北部にも、桓武天皇の所領があり、東寺に与えられて川合荘となった。 天武天皇以来、天皇家はこの地一帯に広大な土地を所有していたのである。 さらに、中村野推定地を見下ろす地にある山添2号墳からは王権との関係を示す金銅製馬具などの副葬品が出土する。 天武天皇が多気郡北部に斎宮を建設できたのは、その地が遅くとも古墳時代後期以来、大和王権の直轄領だったからだと推理するのである。

(2003.7. 伊勢新聞掲載)


Archeologueに戻る→
HP巻頭に戻る↑