第1回考古学研究会東海例会
〜次なる二十年への第一歩として〜



 三重大学に考古学研究室が創設されて今年で二十年になる。 初代は現名誉教授の八賀晋先生である。岐阜県垂井町の美濃国府の解明を進められ、鈴鹿・不破・愛発三関の地理的研究は著名である。 最近では松阪市宝塚古墳の調査・整備に精力的の取り組まれている。創設以来数多くの研究者を送り出され、東海地方の核になる人材を輩出された。

 そんな後を受けて私が赴任したのが六年前である。 永く行政で発掘調査に携わってきた私の調査・研究はどうしても現実主義的な傾向に陥りがちである。 「遺跡の保護のために大学研究者のなすべきことは何か?」「行政現場で即戦力として使える学生をいかに養成すべきか」 「地域との連携をいかになすべきか」等々悩みは多い。 特に独立法人化を前にして、多様な学生の要望への対応、専門教育の徹底と就職口の確保は、なかなか至難の業である。

 昨年三ヶ月余にわたって中国陝西省で発掘調査に関わったのもそうした試行錯誤の一つであった。 不慣れな宇賀新田古墳群などの群集墳の調査を実施したり、白山町・安濃町で立て続けに分布調査に関係したのもそのためである。 蒔いた種はようやく発芽しかかっているところで、花園となるかどうかはまだ不明である。

 この様な暗中模索の時、東海地方にいる研究者の中から「東海地方で中心となる研究会を組織しませんか?」というお誘いがあった。 もちろん大賛成であった。 二月に準備研究集会を立ち上げ、大きな自信を得て、八月二・三日に三重大学講堂で第一回例会を開催した。 百六十余名もの多くの研究者や学生が集まり、会場となった小ホールは熱気で溢れていた。 今回のテーマは「東海地方における前方後円墳の調査と整備」であった。

 三重県では宝塚古墳の調査と整備が同時進行中であり、実にタイムリーな企画であった。 「いかなる資料に基づいて、どのような点を根拠に、かつ市民に受け入れられる整備をいかになすべきか」 結論は出なかったものの、岐阜県大垣市の昼飯大塚古墳、愛知県吉良町の正法寺古墳など、 いずれも多方面から真剣に検討した上での整備が進められている。

 かつて私は京都府向日市にある物集女もづめ車塚古墳の調査、 整備、活用を経験したことがある。 特に都会のど真ん中にあって、横穴式石室を公開する活用方法はそれなりに斬新なものであった。 しかし近年訪れる人も少なくなり、周辺部にはますます住宅が押し寄せてきた。 六世紀中頃、京都市南西部に新しい息吹を伝え、文化の最先端を担った古墳が、今は肩身を狭くしてそっとたたずんでいる。 今回の研究会を通して、整備は一度で終わるのではなく、時々の市民のニーズに応じて、定期的に再検討されるべきものだと強く感じた。 宝塚古墳の整備の基本方針は、「自然を生かしつつ、最大の特徴である造り出し部を再現する」を主眼としている。 考古学研究室の次なる二十年と共に見守っていきたいものである。

(2003.9.21 中日新聞掲載)


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