四日市市・久留部遺跡は何の跡?
〜遺跡の評価をめぐって〜



 発掘調査をしていて一番困るのは遺跡の評価である。 特に古代の遺跡は、『日本書紀』や『続日本紀』などの文献史料に名前が出ている場合がある。 例えば三重県多気郡明和町に遺る「斎宮跡」は長年の調査研究により、史料に出てくる「斎宮」であることがほぼ確実になったので 遺跡の名前にこれが用いられている。 しかし日本中の大半の遺跡は、かつてなんと呼ばれた遺跡かはほとんど不明である。

 考古学では出土遺物から年代を考え、発見された建物や井戸、溝などから遺跡の構造を考え、全国の遺跡に類例がないか調査し、 同一例を推定できるものがあればその分布を調べる。 地道で多角的な研究を通してようやく評価が決まるのである。

 先日ある新聞に四日市市の久留部遺跡が「奈良時代の郡の役所の跡である」とのニュースが紙面を飾った。 もちろん違ってはいないのだが、調査に携わる関係者は少し疑問に思ったに違いない。 遺跡からはもっと古い遺物が発見されているのである。 全国の行政区画が郡になる前の「こおり」時代の役所の跡ではないかと考えていたからである。 もしそうだとすると三重県内ではこれだけ見事に役所の跡がまとまって発見された例は他にない。 遺跡の名称も、「朝明評衙跡」ということになるのである。「朝明評衙」でよいことになるともう一つ重大な問題が出てくる。

 史料によれば朝明に滞在した二人の天皇が知られる。天武天皇と聖武天皇である。 壬申の乱において、天武天皇(大海人皇子おおあまのおうじ) はいち早く伊勢国に入り、鈴鹿関を確保し、ついで美濃国に入り不破関を掌握して戦いの主導権を握った。 日本史上まれに見る内乱の中で勝敗の行方は全く不明であった。 「苦しい時の神頼み」である。『日本書紀』によれば天武は朝明で伊勢神宮を遙拝し戦勝を祈願したという。

 奈良時代に入り大仏を建立したことで知られる聖武天皇は、七四〇年、突然奈良の都を出て約二ヶ月間にわたり、伊賀、伊勢、美濃、近江を旅する。 最新の研究によれば聖武が曾祖父である天武の跡をたどることによって自らの政策を再検討したのだという。 彼もまた、朝明に立ち寄ったことが知られる。

 実は久留部遺跡が郡(及び評)の役所であることは専門家の間で意見が一致している。 ただし、いずれの研究者も首をかしげるのはそれぞれの建物が異様に大きいのである。 ただの役所ではないのでは?というのが共通した認識である。ひょっとしたら天武も聖武もこの地に立ち寄ったのでは・・・。 今、久留部遺跡のある丘の上に立って遙か海上を眺めると真正面に「伊勢」の地が見られる。遺跡の評価につながる極めて重要なポイントである。 久留部遺跡は日本でたった一つしかない、かつ日本史を変えた舞台であった場所ではないか。 だとすると、国の特別史跡にもなりうる極めて重要な遺跡とうことになる。

(2004.3. 伊勢新聞掲載)


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