知られざる遺跡・天王遺跡
〜ミヤケと港〜



 鈴鹿市岸岡町に天王てんのう遺跡という、世間には余り知られていない遺跡がある。 遺跡の始まりは弥生時代である。 大規模な溝が村を取り囲む環濠集落が認められ、 少なくとも二千年以上も昔から人々が鈴鹿川の右岸に広がる低湿地を開拓して農業を営んでいたことが知られる。 さほど特別でもない弥生時代の光景であるが、これが一変するのが古墳時代後期、特に七世紀に入ってからである。

 当時の建物は高床倉庫や特殊な楼閣、豪族の居館等を除けば基本的に竪穴住居であった。 ところが天王遺跡では、突然、掘立柱建物という今の日本の家屋と同じ床のある建物が十数棟も建ち始めるのである。 中には倉庫も多数あり、軒を並べているらしい。 中心施設に推定できるのが、左右対称に建物を配置している遺跡の南東部である。

 大化の改新が起こる前、推古天皇の晩年から舒明天皇の頃のことであると推定されている。 この時期に、海辺に、これだけの建物群が立てられている例は全国でも例がない。

 まず注目されるのが遺跡のある場所である。岸岡山という小高い丘のすぐ北側の周囲より少し高くなった土地に遺跡はある。 現在、遺跡の北側を流れている金沢川は鈴鹿川の旧流路で、海岸線に沿ってできた砂堆と呼ばれる小さな砂丘の内側を流れていたという。 港としての条件の整った土地である。 丘陵中には六世紀末から七世紀前半にかけて須恵器を焼成していた窯跡が数基認められ、小さな古墳群も形成されている。 天王遺跡とほぼ同じ頃の遺跡群である。しかし、古墳群には特に目立った副葬品をもつものは知られていない。 唯一目を引くのが岸岡山で生産された須恵器である。 天王遺跡内でも大量に確認されるほか、伊勢北部や海を越えて三河湾に浮かぶ日間賀島まで運ばれている。

 六世紀から七世紀にかけて、大和の王権は地方の直接支配に乗り出す。その拠点がミヤケである。 実態はほとんど知られていないが、全国に残る地名から所在地が推定されている。河曲郡と鈴鹿郡の郡境に三宅神社がある。 興味深いのは現在の両郡の郡界が南北に直線的に定められている点である。

 ひょっとしたら河曲郡全体がミヤケだったのではないか?天王遺跡は伊勢湾渡航の港として、ミヤケ経営のための重要な施設だったのでは・・・、 等と思いめぐらしているところである。 伊勢国にはまだまだ謎に満ちた遺跡がたくさん残されている。

(2004.5.16 伊勢新聞掲載)


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