安倍仲麻呂と安南都護府
〜ヴェトナムの首都ハノイへの夢〜



 ヴェトナムが最近にわかに注目されている。一つはイラク戦争との比較で、もう一つは新たなリゾート地として。 私達ヴェトナム反戦世代にとって、前者には何の違和感もないが、後者には驚きを隠せない。 我がゼミの学生に「今度ヴェトナムに行くんや」と言うと突然羨望の声が返ってきた。 全く予想外の反応だったので、その理由を聞いてみると「ヴェトナムは新しいアジアファッションの起点として注目できる上に、料理がおいしい!」 というのだ。 もちろん値段が手頃なことも大いに関係するのだろうが・・・。 彼等のお土産希望は第一位がアオザイ、第二位がライスペーパーである。情報はかなり溢れている。

 やはり同僚からも「何しに行くんですか?」と問われる。 面倒だから「観光」と答えることにしているのだが、実は、六月四日から一週間、 ヴェトナム政府の招きでハノイから発見された宮殿遺跡の保存について提言するための訪越である。 私はヴェトナム考古学等全くの専門外なのだが、日本の古代宮殿については長く研究をしている。 宮殿の比較ができるのなら、ということでお引き受けしたのである。 ちょうど今、四日市市久留倍遺跡の保存問題に取り組んでいるところであり、タイムリーな招聘であった。

 ヴェトナムと日本とはどのような関係にあるのだろうか。

 身近なところでは、第二次世界大戦において日本軍がインドシナ半島に進駐し、多くの犠牲者を出したことが知られる。 この戦争が、ヴェトナム共産党結成のきっかけになったことは余り知られていない。 江戸時代、山田長政などの人物が東南アジア各地で活動し、日本町を形成したが、ヴェトナムにも中部フェイフォ(会安)に作られたという。

 ところがもっと古く、奈良時代から日本とヴェトナムの間には関係があったのである。

  天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

 百人一首に阿倍仲麻呂の作として出てくるこの歌は、遣唐使として唐に渡った仲麻呂が、 ようやく帰国を許された七五三年、出発せんとする船で読んだとされる。 この船団には鑑真和上も乗船していたが、仲麻呂の船は不幸にも遭難し、ハノイ(昇竜)に漂着する。 船団の多くの人々が殺される中、何とか逃げ延び、長安にたどり着いた仲麻呂が、以後日本に戻ることはなかった。 中国での官僚として活躍した彼はハノイに置かれた安南都護府の役人として後日着任する。 そこでどんな仕事をしたのかは全くわかっていないが、発掘調査の進む遺跡からはそのうち、仲麻呂が記した木簡(竹簡)が発見されるのでは・・・、 と期待している。

 中国にならって改革を進めるヴェトナムにとって、遺跡は「邪魔者」なのかも知れない。 しかし日本や中国の失敗を紹介する中で、政府が積極的に文化財保護に手を打つよう働きかけたい。 週末、安南都護府跡に思いをはせてハノイに向かう。

(2004.6.20 伊勢新聞掲載)


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