海女の祖先たち
〜隠岐島の阿曇も氏と志摩の膳氏〜



 景行けいこう天皇の東国遠征に仕えたムツカリ(六雁)が、 カツオやハマグリを料理したところ、腕前の良さが気に入られ、以後天皇の食事係となり、「膳(かしわで)」の姓を名乗ることになった。 その子孫が海の幸入手の拠点としたのが志摩であった。

  一方、淡路島に本拠を置き、西日本一帯から海産物などを入手し、天皇の食膳に提供したのが ()(ずみ)であったとされる。

 平安時代の史料によれば、「内膳司」という天皇の食事を司る役所で調理された食事は、 内裏(だいり)(御所)に運び込まれるが、 途中、外・内進物所という内裏の内外にある施設で毒味をした上に、 天皇の口に入る直前にも内膳司の長官である奉膳(ほうぜん)が確認して提供されたという。 古くその職を分担したのが膳・阿曇の二氏だったのである。

  最近平城京から発見された木簡興味深い内容が確認された。 二条大路という都第二の大路の路面に廃棄されたゴミの中には、 天平七、八(七三五、六)年頃に諸国から送られてきた税物に付けられた荷札木簡が大量に含まれていた。

 隠岐国は海藻(ワカメ)の貢納国として知られるが、税の負担者をみて驚くのは海部郡佐作郷に安曇部と海部姓が集中することである。

 安曇部とは中央にいる安曇氏に統括されて各地方でその命令に従って食材を栽培、採取した人々と考えられる。 税物を貢進した佐作郷は、隠岐島の南半、島前と呼ばれる地域にあるリアス式海岸べりの村々が集まってできた郷と考えられる。 従来の文献史料からの研究通り、西日本の食材は安曇氏は統括していたことが実証されたのである。

  さらに興味深いのは、海岸に点在する各村から横穴と呼ばれるお墓が発見され、 格式の高い作り方をしたお墓からは、都より持ち込まれた可能性のある土器が出土することである。

 村の代表者は明らかに中央との太いパイプでつながれていた。 推古天皇の時代(六〇〇年前後)以来、隠岐島島前の民は都への海藻貢進を義務づけられ、連日海に潜っていたのである。

  残念ながら志摩での実状は今のところ海岸線には展開する浦々には、同様に膳氏に統括された民が配され、魚介類を捕っていたのであろう。

(2003.2.16 伊勢新聞掲載)


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