静岡産壺の謎
〜熱燗徳利の首つまんで…〜



  吉田拓郎の歌に「旅の宿」というのがある。 「浴衣のきみは すすきのかんざし 熱燗とっくりのくび つまんで もういっぱいいかがなんて みょうに いろっぽいね」

 七十年代初頭、全国の大学闘争が終結し、厭戦的な空気が漂う中登場した「タクロウ」の歌は日本列島を覆い尽くした。 ただ、当時の僕には拓郎や陽水を歌う気にはなれなかった。

 歳をとったのか、今学生たちとカラオケで歌うのは彼らの曲ばかりである。もちろん学生たちはシラーッとして聞いている。

 酒呑みの日本人にとって「熱燗徳利」のシーンは脳裏の片隅 に焼きついているのではなかろうか。 その熱燗がいつから日本人のものとなったのか、実はあまりよく知られていない。

 僕はこのごろビール党になってしまい、飲むことも少なくなったが、学生時代は毎日のように寮の仲間と屋台で、 おでんを肴に熱燗のコップ酒を飲むのが日常だった。一時、各地の焼き物の産地を訪れては、徳利で飲むイメージに酔ったことがある。

 そんな徳利の意外な歴史が東海地方にある。「壺G」という風変わりな名称で呼ばれる、一輪挿しのような形の壺である。

 三島にある花坂島橋窯や藤枝市の助宗窯で八世紀後半から九 世紀初めにかけて生産され、当時の都・長岡京や平安京から大量に出土する。 ほかにも、斎宮をはじめ東日本のお役所跡や東北の城柵跡からしばしば発見され、数多くの考古学研究者が通目する資料である。

 その用途は未だに判然としないのだが、平城京資料館に行くと堅魚煮汁・煎汁の運搬具として紹介されている。

 以前から私はこの説が間違っていると強く主張するのだが、なかなか聞き入れてもらえない。 しかし前回紹介した伊豆の芹沢さんとのお話でそれは確信にかわった。

 「鰹は腐りやすい。煮汁は半日持てばいいところだ!」。こんな食材をクール宅急便もない時代にどうして都へ運ぶことができようか。 木簡に記された煎汁が壺Gに入れて運ばれることはあり得ないのである。 水分がなくなるまで煮詰め、コンソメスープの素のように固めて貢進されたのが煎汁だと、僕は考えている。

 では一体何に使ったのか。熱燗用の徳利ではないかというのが僕の意見である。 これまで平安時代の初めからとされてきたが、もう少し古く、奈良時代の終わり頃、桓武天皇の東北への軍事行動に伴って始まったと推定している。 壺Gの燗酒、一度のんでみたいものである。

(2003.4.20 伊勢新聞掲載)


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