尾鷲に生きる
〜曽根遺跡の石鏃〜



 先日同僚の先生方と尾鷲を訪ねた。今、日本に99ある国立大学が「存亡の危機」を迎えている。 その生き残りのために各大学が、様々なアイデアを出して大学の必要性を訴えている。

 三重大学人文学部では、熊野の地で公開講座をしようというプランが進行中である。高等学校で講義をしてはどうかという意見もある。

 そんな中、私に課せられた「使命」は、"山のようにある"という 石鏃せきぞく(石で作った矢じり)であった。

 実は私の学生の頃の関心は縄文時代にあった。 「縄文中期農耕論」が一世を風靡した時代で、本当に縄文人は農耕をしていたのだろうか? もししていたとしたらどんな道具で、どんな社会を作っていたのか?といったことが研究の対象であった。

 結論は「農耕はなかった」であったが、その過程で縄文人達が、自らの暮らす地域を熟知し、 自然のサイクルをうまく利用しながら、細々とではあるが堅実に生きている姿を知ることができた。

 久しぶりに見た縄文土器や石器は、私を35年前にタイムスリップさせてくれた。

 海辺の傾斜地の一角にある曽根遺跡は、7〜8千年も前の昔から、縄文時代の終わる2500年前くらいまで、 営々とその生活を刻み続けた場所であった。

 たくさんの石器の中には、「山のような石鏃」だけではなく、 木の実を割るための敲石たたきいしや石皿、 漁網に付けて重石とした石錘せきすい等の道具や、 お祭りに使った男性のシンボルをかたどった石棒(石刀)等もあった。

 まるで縄文時代の教科書を見るようであった。「ひょっとしたらあの有名な青森県の三内丸山遺跡に匹敵するかも知れない。」と思った。

 実はこの遺跡は今から30年以上も昔、地元の学校の先生の手によって発掘調査され、 出土物もきちんと整理、報告され今に伝えれてきたものである。

 その資料の中におそらく調査を手伝った子ども達の手になるのであろう、かわいらしい鉛筆の字で書いた石器の出土地点図があった。

 「山のような石鏃」はある一ヶ所から集中的に発見されていたのである。 中には作りかけのものや作った後の石の滓(剥片はくへん)もまじっている。

 石鏃作りのプロがいて、器用に作った石鏃を周りの村人達に分けてやっていたのかも知れない。 きっとお礼にたくさんの山の幸や動物の肉が渡されたに違いない。海と山をつなぐ生活が既に始まっていたのである。

 学生達と泊まり込み、尾鷲の、熊野灘の生活のルーツを解き明かし、縄文村を再現する。 こんな夢の実現が大学にとっても地域にとってもプラスになれば…、と思っている。

(2001.9.16 伊勢新聞掲載)


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