関馬墻と鈴鹿関
〜緊迫する国境をめぐって〜



 先月末から1週間ほど中国東北部に位置する高句麗こうくりの都や山城の調査に出かけた。 高句麗は朝鮮民族が築いた古代の三つの国(南に百済と新羅があった)の一つで、現在の北朝鮮から中国東北部にかけて、 三国のうちでは最も広い領土を有していた。

 高句麗は中国の統一王朝と国境を接するために常に侵略の危機に瀕し、 前漢の時代には玄菟げんと郡や 遼東りょうとう郡などの漢帝国の出先機関が置かれ、その支配下におかれることもあった。 調査の目的はこうした激しい外国の脅威にさらされた高句麗と、海に隔てられた日本の都との比較研究にあった。

 高句麗は首都を3度遷した。 卒本そつほん桓仁かんじん)→国内城 (集安しゅうあん)→長安城(平城)である。 日本の教科書でもおなじみの「高句麗好太王碑」の所在する集安は、5世紀前半まで都だった所で、 碑のすぐ近くには大王塚や将軍塚とよばれる 巨大な積石塚つみいしづかが所在する。 国内城とよばれた都の遺構は現在の市街地に残る城壁によって確認でき、城壁の内部から発見された宮殿跡は史跡公園となっている。

 国内城の北西部、山の中腹部から頂部にかけて間堅固な城壁を巡らせた山城がある。 丸都がんと山城である。 内部には広大な宮殿跡や眺望台、池などがある。緊急時に首都の人々が立てこもる城だと言われる。 平時の都とセットであるところはいかにも高句麗らしい。実は首都に至るまでにいくつもの防御網をくぐらなければならない。 特に著名なのが二重三重に設けられた山城である。

 今回も未知の山城を求めて現地を歩き回った。その中で私の注目したのが、桓仁から集安へ抜ける道に設けられていた「関馬墻」であった。 東西から険しい岩山が迫る急谷をせき止めるように設けられた二重の城壁と堀がそれである。 すぐ脇の狭い谷筋にも設置され、さらに都に近い方にもう一つの関所が造られている。

 日本の都にも東に鈴鹿、不破、愛発あらちの三関のあることはよく知られている。 三重県には川口(白山町)にも大規模な関所があった。 関所は二重構造になっており、いざというとき軍を防ぐ小関と、平時に人や馬や車を止めて書類や不審物などをチェックする大関に分かれていた。 日本の関との違いは、平時を想定した空間が認められない点であった。常に緊張状態を想定しながら国造りが行われていたのである。

 この北ルートのほか、都に向かう北東、北西、西の道筋にも関所のあることが知られている。 いざ戦争となるとすべての山城に軍を配置し、関をふさいで敵の侵攻をとどめた高句麗。 片や日本は白村江はくすきのえの戦いに敗れた後、一度は山城を造ったが、 東からの通行をチェックする目的で設置した鈴鹿などの関の東には、軍事的な目的の山城を造らなかった。 高句麗と日本の違いはここにある。古代以来、日本ほど平和な国は世界中のどこにもないと再認識した。

(2004.11.21 伊勢新聞掲載)


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