斎宮と離宮院
〜謎の離宮院を掘る〜



 多気郡明和町に神に仕える女性の住まいした、世界でも珍しい遺跡がある。斎宮跡である。 一九七九年、今からちょうど四半世紀前に国の史跡に指定された。三重県が誇る貴重な遺産の一つである。 しかしまだ遺跡は多くの謎を秘めている。

 先日も斎宮歴史博物館で小さな研究会が開催されたが、そこで話題になったのが、 天武天皇により初めて造られた大伯おおく皇女が用いた 斎宮や奈良時代の斎宮がどこにあるかという点であった。 未だに場所が特定できないのである。これに対して、奈良時代の終わり頃に近鉄斎宮駅周辺に、 碁盤の目のように道路で区画した空間・方格地割が突然出現する。最新の発掘でこれを造営したのは桓武天皇だったことが判明した。  斎宮跡から発見される数多くの遺構の建設順序を決める手がかりとなっているのが土器である。

 現代人の用いる車が毎年少しずつ形やエンジンを変えるように、古代の土器も徐々に変わっていたことが知られている。 発掘調査に際し、土器に混ざって年号の書かれた木簡などが出土すると、順番だけが判明していた土器に年代を与えることができる。 「天平○年式土器」だとか「延暦△式土器」のように歴史年表の中に当てはめることができるのである。 ただ残念なことに、斎宮跡からは年号の書かれた文字資料は今のところ一点も発見されていない。基準となるものがないのである。 ではどうして方格地割を造ったのが桓武天皇だと言えるのか。実は同天皇が建設した長岡京から、集中して出土する特殊な壺が、 方格地割の建設現場の遺構に伴って発見されたのである。斎宮の土器にようやく具体的な年号を与えることができたのである。 ところがここで困ったことが起こってしまった。これまで推定していた年代と少しずれてしまうのだ。研究会でもこの点が話題になった。 私は素直に新しい資料を用いてこれまでの研究を見直せばいいと主張しているのだが、納得しない人もいる。

 実は斎宮にはもう一つ大変重要な「事件」がある。 天長元(八二四)年から承和六(八三九)年までの間、斎宮が小俣町の離宮院へ遷されるのである。 離宮院の一部は現在官舎神社の境内に国史跡として指定され残るが、大半はJR宮川駅を挟んで北側に延びることが予想されている。 最近、旧駅構内の発掘調査が行われ、東西百メートル近くにわたって伸びる塀の跡や建物群、溝が発見された。 離宮院の一部である可能性が高いという。今回は残念ながら土器はあまり出土しなかったようだが、 離宮院の発掘調査を進めていけば、いずれ多くの土器が発見されるはずである。 文字資料発見の可能性の少ない斎宮跡にとって、十五年という限られた時期に使用された離宮院の出土遺物は、 斎宮の資料にもう一つ具体的な年代を付与する定点になるはずである。 斎宮の年代を確定するためにも、離宮院の実態を解明するためにも本格的な発掘調査体制の確立が望まれる。



国史跡離宮院北側から発見された東西柵列(東から)

(2004.12.19 伊勢新聞掲載)


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