大伯から白村江へ…
〜波瀾の生涯・初代斎王〜



 岡山県の東南部にある邑久おく郡は、 瀬戸内海に面した風光明媚ふうこうめいびな土地である。 その名は和銅六(七一三)年までは大伯おおく郡とされていた。 実は大伯郡と伊勢国とは深い縁で結ばれている。

 西暦六六一年、大船団が瀬戸内海を移動しつつあった。斉明女帝自ら率いる新羅遠征軍である。 一行は、天皇以下、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、 そして額田女王などそれぞれの妃達をも含んだ大和王権そのものであった。

 船が備前国大伯の海にさしかかったとき、一人の女性がにわかに産気づいた。大海人皇子の妃・太田皇女である。 生まれた女子の名はその地にちなんで大伯おおく皇女とされた。

 日本最初の本格的な海外戦争・白村江はくすきのえの戦いは、 唐・新羅連合軍に敗れ、数万の大軍を失うという無惨な結果に終わった。

 既に九州朝倉の地で亡くなっていた母に代わって指揮を執った中大兄皇子は、 唐・新羅連合軍の追撃を恐れて直ちに九州に防御ラインを敷き、水城や大野城を設けた。 瀬戸内海沿岸部には鬼ノ城(岡山県)、屋島(香川県)等の山城を次々と建設させた。古代において日本列島が最も緊張した時期であった。

 唐の報復がないことが明らかになり、政情が安定しかかった六七一年、天智天皇が亡くなると、後継者を巡って内戦が勃発した。 壬申じんしんらんである。

 日本国中を巻き込んだ大戦争は大海人皇子の勝利となり、戦後、諸改革が実施された。 宗教改革としては、全国に寺院の建立を命じ、伊勢神宮をまつるために斎王制度を創設した。 その初代斎王が大伯(大来)皇女だったのである。六七三年一二歳の時である。

 しかし彼女の波乱の人生はこれでは収まらなかった。六八六年、弟・大津皇子が謀反の疑いで処刑されるのである。 天武天皇亡き後の皇位継承争いに巻き込まれての死である。

 皇子は事件の直前、姉を伊勢の斎宮に訪ねた。

  我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我立ち濡れし (万葉集)

 何か異様を感じたのか、大和へ帰る弟の後ろ姿をじっと見送った大伯皇女の歌である。

 名張市に残る夏見廃寺は皇女が弟や父を弔うために造ったともいわれる。 海外戦争への荒波の船中での誕生という数奇な運命の下に生まれた皇女は、 「戦い」に翻弄された人生のはかなさを抱きながら、大宝元(七〇一)年四〇歳の人生を終える。

(2001.10.21 伊勢新聞掲載)


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