参河国幡豆郡三島と鈴鹿
〜証人・脚付短頸壺〜



 知多半島の先、渥美半島との間をまるでケンケンで跳んで行けそうなところに 篠島しのじま佐久さく(析)じま日間賀ひまか(比莫)じまの三島がある。 この小さな島々は古代史研究者の間では大変有名である。 何といっても名産は「佐米楚割」である。「さめのすやわり」などと読む。鮫を日干しにして割いた珍味である。 これが奇数月は篠島、偶数月は析島というように、月々に貢進の島を決めて平城京の天皇の下へ届けられていたのである。 昔はたくさんの鮫が捕れたのであろうか。

 名古屋大学の渡辺誠先生の研究によると、三島にはたくさんの古墳があるが、その一部からは大きな鉄製の釣針が発見されるという。 レントゲン写真の解析によって明らかにされた釣針は、まさに現在使われるのと全く同じ作りをしていた。 つまり、鮫の強力な歯によって糸が切れないように1メートル余が鉄の鎖になっているのである。 一三〇〇年以上もの長きにわたって鮫釣りの知恵は継承されていたのである。

 さて、私が注目するのは、日間賀島にある北地五号墳から出た一個の須恵器である。 他と違っているのは、スカートのように広がる脚が壺の底についている点である(脚付短頸壺―きゃくつきたんけいこ―と呼んでいる)。 壺自体もかなり扁平な、あまり見栄えのする容器ではない。しかしこれがどこにでもあるかというとそうでもない。 東海地方に数千はあろうかと思われる古墳の中のたったの一〇ヶ所なのである。焼いていた窯もわかっている。 鈴鹿市の南東隅、岸岡山という小さな丘の一角である。 実はこの須恵器の伝来とほぼ時を同じくして三島に古墳群が形成され、鮫の捕獲が盛んになるらしいのである。

 ところで、この壺のモデルとなったものがある。前回ご紹介した井田川茶臼山古墳に例の冠と共に副葬された脚付短頸壺である。 もちろんこちらの方が立派である。壺の周りにはしゃれた模様も付いている。ここから博士の大推理である。

 六世紀の初め、構造改革の旗手・井田川茶臼山の主は、抵抗勢力を排し伊勢国に強力な楔を打ち込んだ。 さらにその成果を広めるため、周囲に何人かの部下を派遣し、賛同者を求めた。 北は大安町宇賀新田古墳群から、南は度会郡丸山古墳、東は豊橋市二本松古墳群まで、 そして、海上に浮かぶ小さな島々にも目を付け、そこで働く海部集団を取り込んだ。いずれの古墳群も陸海の交通の要路に位置している。 もちろん島には別の目的があった…。

(2002.2.17 伊勢新聞掲載)


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