最古の蘇民将来札
〜長岡京から出土したお守り〜



 お正月にもなると伊勢・志摩の家々の玄関に飾られていた注連縄しめなわ蘇民そみん将来札しょうらいふだが新調される。 以前神島かみしまを訪れたときも、 あちこちの玄関先に蘇民将来札が架けられていて驚いたことがある。 通りがかりの婦人によると、札は年末になると大工さんが新しいものを作って届けてくれるという。

 実は私の研究室の入口にも「海の博物館」で買った札が置いてある。訪れる人に病が降りかからないように!と祈ってのことである。 民俗例には様々なものがあるが、信州の蘇民将来札はこけし状をしていて有名である。

 京都に生まれ育った私には、玄関先のお札は珍しいが、蘇民将来とは切っても切れない縁がある。 祇園祭を主催する八坂やさか神社がこの信仰のメッカなのである。

 そもそも祇園祭とは平安京に流行った疫病の根絶を求めて開始されたお祭である。

 「その昔、スサノオノミコトが南海の女神に求婚のため旅に出かけた。 巨旦将来、蘇民将来兄弟の住む村で日が暮れ、宿泊を頼んだところ、豊かな暮らしの兄には断られ、貧しい弟は快く泊めてくれた。 神は立ち去るとき「今後、疫病が流行ったら、自ら蘇民将来の子孫と言い、 腰にの輪を付けなさい、そうすれば免れる」と言い残した。」 スサノオノミコトを祭神とする八坂神社が注目されたのはそのためである。

 ところで発掘調査ではこれまでに五〇点余の蘇民将来札が出土している。 大半が中・近世のもので、三重県内でも伊勢寺遺跡など三ヶ所で知られる。

 最近、七八四年から七九四年までの十年間、日本の都であった長岡京から、長さ2.7cm、幅1.3cm、厚さ2mm、 上端に小さな穴のあいたかわいらしい蘇民将来札が出てきた。今のところこれが日本で最も古い札である。

 発見された場所は、都の東西に置かれた官営市場・西市の近くである。 一緒に出てきた食器には「廿にじゅう」と書いたものが十二点もあった。 私はここに住んだ人々を地方から都へ肉体労働のために派遣された 仕丁しちょうと呼ばれる農民の集団 (当時これを「」と呼んだ)だったと推定している。 廿はその出身地の地名ではなかろうか。

 都に向かう恋しい人が病にかからないよう、穴に糸を通して肌身離さず身につけさせていたとしたらどうだろう。 しかしお札はなぜか一度どこかで使われた後溝に捨てられていた。祈りも空しく恋人は帰らぬ人となったのであろうか…。

(2002.1.20 伊勢新聞掲載)


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