宇賀新田古墳群発掘調査報告書

『宇賀新田古墳群』表紙
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2003年3月発行
 当研究室が1999年〜2001年にかけて発掘調査した、三重県員弁郡大安町大字宇賀新田所在の古墳時代後期の古墳群の報告書。

「序」より
 三重大学人文学部へ赴任して初めての発掘調査が宇賀新田古墳群であった。長く長岡京跡の発掘調査は行ってきたものの、小規模な群集墳の調査を担当するのは初めてのことであった。もちろん三重県内の遺跡の調査も未経験であった。それだけに発掘調査は緊張の連続であった。慣れない大学での授業をこなしながら、それ以上に、未経験な学生達に発掘の初歩を教えながらの調査は予想以上に気苦労の多いものであった。そのような中で、着実に成長してくる学生の姿を見ることは、行政発掘では得ることのできない新鮮なものであった。
 調査を始める前に驚いたのは当地の町名、大安町が大安寺の施入墾田に由来することであった。『大安町史』によれば宇賀新田に隣接する梅戸井地域に推定されていた。通説によればそれは壬申の乱での功績によるとされる。宿野原と称された墾田地は500町(500万平方m)にも及ぶ広大なものであった。なぜこれだけの土地が、歴史的には小さな群集墳しかもたない宇賀川右岸の地域に設定されたのか。私の素朴な疑問であった。その解答は以外にも古墳群の成果から得られることとなった。
 宇賀新田古墳群は、発掘調査によって6基の全体像を明らかにすることができた。直径10m前後の小円墳からなる古墳群で、戦後激しい破壊を受け、いずれも玄室部の天井石が除去されていた。にもかかわらず、石室の隙間からこぼれ落ちたさらさらの黒色土が床面の遺物を覆い隠したため、多くの遺物が奇跡的に原状に近く残されていた。その結果、各古墳毎に副葬品や石室構造が微妙に異なることが判明した。中でも鈴鹿市岸岡山窯産の須恵器脚付短頸壺や、尾張猿投窯産の平瓶の出土は当地の多様な交流関係を示すものであった。さらに、念のために採っておいた4号墳玄室埋土の洗浄で10個のガラス玉を得たことは望外の喜びであった。ガラス玉の発見が調査終了間際のことであり、玄室内に転落した羨道部天井石を除去する術もなかったため、肝心の4号墳の調査が不完全であった点は残念であるが、幸い4号墳は破壊されずに残っており、機会を改めて再調査したく思っている。
 本調査で得られた成果は、その後、私の研究の方向性を大きく変えた。古代研究にとって、律令国家成立前夜の研究がいかに大切かを痛感させてくれたのである。現在では、天武朝と聖武朝の二度にわたって施入された墾田地は、6世紀末頃に確立した王権との直接的関係に由来するものと考えている。伊勢国における倭王権との最終的関係整備がこの頃であったことを教えてくれる貴重な成果だったのである。
 宇賀新田古墳群は11基で構成され、未調査の古墳が東の林の中に5基残っている。これらの発掘調査を実施し、一部破壊されたとはいえ、墳丘の名残を確認できる全体を整備して、地元の方々のみならず、全国の考古ファンが訪れるに相応しい歴史公園として整備されることを待ち望みたい。
 最後になったが本調査をなすに当たって、大安町長日沖靖氏の多大な援助を得た。記して感謝したい。本書が大安町の今後の文化財保護政策に役立つことを願わずにいられない。
2003(平成15)年3月31日
三重大学人文学部考古学研究室
  山 中  章   

シリーズ名
大安町埋蔵文化財調査報告書第2集・三重大学人文学部考古学研究室調査研究報告書第1集

本文65頁 写真図版22頁 
A4版