第T部 日本考古学研究の動向 1999年度 古代

三重大学 山中章

 

 1 主な発掘調査

 1999年度の古代遺跡の発掘調査では、古代宮都関係を中心に実に多くの調査成果が得られた。

 難波宮「戊申年木簡」は難波長柄豊碕宮が前期難波宮跡であることを決定づける資料となっただけでなく、共伴した遺物の年代に貴重な暦年代を付与することになった。1998年に尾野善裕氏が投じた石[尾野1998]は、今や大きな波紋となって、全国の歴史時代遺物・遺構の年代観を根底から覆す勢いとなり、歴史叙述の変更を迫っている。本年度の古代研究の一つの柱が「尾野編年」を巡るものであったことからもそれが裏付けられる。しかし、本稿では、尾野説はあくまで刺激的な仮説として提示された歴史資料の一解釈の一つであって、同説が成立するためには依然として克服すべき多くの課題、論証作業が必要であるとの立場をとる。その仮説に問題を投げかけるのが「戊申年木簡」でもあった。共伴した大量の遺物は、調査担当者である江浦洋氏によって、厳密な層位の検討の下取り上げられ、記録されており[江浦1999]、正報告書によって須恵器編年の貴重な一定点が確立されることを期待したい。

 長岡京東院の発見も衝撃的であった。長岡京北郊に所在が確認されつつある「北苑」内から、最大時六町かとも推定される広大な宮殿遺構が発見されたのである[東院2000AD]。出土した木簡により平安遷都直前の仮内裏の構造や内蔵寮、勅旨所などの内廷官司の様相が明らかにされつつある。東院は仮内裏として利用される以前には園池を備えた離宮としての機能を持っていたらしく、「北苑」が、唐長安城の禁苑を模した広大なスケ−ルのものであった可能性が指摘されている。文献史料のほとんどない平安時代初頭の政治的、文化的様相が初めて明らかになったのである。

 平安京でも、10世紀末に「斎宮」が利用した一町規模の庭園跡が右京三条三坊から発見された。庭園は玉石で護岸され、景石を配した華麗なもので、平安京内における斎王の日常を知る貴重な資料となった。

 ほぼ同じ頃、飛鳥では、飛鳥池遺跡の直ぐ南から壮大な祭祀の舞台が発見された。舞台の主役はひょうきんな顔立ちの亀石である。益田の酒舟石の北側丘陵下から発見されたことから、飛鳥に点在する一連の石像物群との関係が取りざたされている。仮に天武朝に下るとしても、飛鳥宮の北東近距離にかくも壮大な祭祀空間が設定されていたことは驚きである。ただ皮肉なことに、破壊が決定された飛鳥池遺跡(「万葉ミュ−ジアム」建設)の関連事業に伴う事前事業として実施された調査での発見であった。

 前年の六月には出水の酒舟石が調査され、飛鳥宮の北西に位置した広大な庭園遺構であったことが判明した。抜き取られた酒舟石の両側に連なる石像物も発見され、斉明朝或いは天武朝に宮殿の後方に園池が存在したのである。亀石と共に、飛鳥京域の各所に様々な饗宴、祭祀の空間が広がっていたのである。

 この様な歴史研究に欠かせない重要な遺跡が発見されたにもかかわらず、長屋王邸の破壊以来、東院や飛鳥池遺跡のように、国家運営に重要な役目を果たす広域遺跡は次々と破壊されてきた。見た目に珍しい、印象の深いものだけが難を逃れ、本来それらに優とも劣らない遺跡が破壊され続ける20世紀末の日本の文化行政に、暗澹たる気持ちを抱かざるを得ない。

 この他全国各地から古代の遺跡が発見されている。

 多賀城では城外の調査が進み、南門から南へ伸びる南北道路と東西道路の交差点が発見された。交差点北の自然河川との交点には、巨大な橋が架けられており、両道路の役割の高さが明らかにされた。伊治城で発見された弩は東北での律令国家と蝦夷との戦闘の激しさを物語っている。福島県白河郡の船田中道遺跡は、7世紀前半の豪族居館跡として注目された遺跡であるが、関和久遺跡を初めとする一連の周辺の調査によって、国造制から評制へと変化する地方支配の在り方をモデル的に示す貴重な遺跡群であることがより明らかになった。岡山県総社市の鬼ノ城跡では城内から大規模な建物跡が発見され、朝鮮式山城のように城内に倉庫群が密集する可能性が高まった。出雲大社本殿の美豆柱の検出はその壮大さに目を奪われるが、文献史料に残された本殿の記録が史実であったことを証明してみせた。今後予想される七世紀代の本殿の検出の日も近いのではなかろうか。福岡市元岡遺跡では、七世紀末から八世紀初めの短期間に営まれた製鉄遺跡群が発見された。同地は大宝二年筑前国嶋郡河邊里戸籍に隣接し、出土木簡の検討などから大宝律令制定前後の地方官衙の在り方や地方支配の具体的な状況が一挙に明らかにあるものと期待される。同遺跡の発見の契機が九州大学の移転であるというのも皮肉なことであるが、遺跡の保護活用には当然の配慮がなされるものと信じたい。

 これほど多く、古代の重要な遺跡の発見があった年も珍しい。今後の正報告書の刊行が待たれる。

 

 2 注目すべき研究会・シンポジウム・講演会

 

 今日の歴史考古学の分野での古代研究の関心は、次の三つに絞られるといっても過言ではない。第一に宮都論、第二に地方官衙論、第三に遺物年代論である。もちろん前二者にはそれぞれ、経済的、軍事的、宗教的、社会的、文化的分野での関心があり、各関心に沿った研究会も行われている。一年間に開催されたシンポジウムはこうした関心の高さを自ずと物語ることになる。

 宮都論では、「藤原京研究会」が奈良国立文化財研究所によって精力的に開催されている。内部研究会が公開されて本年度で三年目となるが、これまでの条坊デ−タ−が関連文献史料と共に整理されて刊行された[藤原1999]。藤原京研究会のもっぱらの関心は、京域の条坊や宅地の研究にあり、今回も、条坊の新たなデ−タ−が補足されたほか、藤原京の宅地に関する成果が発表された。他方、今年度から、宮都の成立」をテ−マに研究の視野が広げられることになった。竹田和哉氏による「平城京の宅地・条坊関連遺構の調査成果」は、平城京との比較を通して藤原京宅地利用の実態をあぶり出そうとする精力的な試みであった。筆者も、「平安京解体過程からみた古代王権の宮都観」というタイトルで、古代王権が根強く拘った宮城や都城の枠組みの意味や都城の象徴と考えた「町」の外郭の撤去が、宮都から中世都市へと平安京が変貌するきっかけになったことを述べた。「都城制研究会」が中断されるなど、他の都城に関する研究がやや停滞気味であるだけに、さらなる展開に期待がかかる。

 「条里制・古代都市研究会」でも、ここ数年の統一テ−マは都市におかれ、今年度は、新羅の王都・慶州北部の調査成果[東1999]や平安京白河の構造に関する研究[上村1999]、飛鳥地域に所在する道路跡の研究成果[相原1999]が示された。特に東潮氏の慶州での新知見は、相原氏の示す新城の構造とオ−バ−ラップする部分があり、今後眼が話せない。慶州の都城制研究は、日本の古代王権がなぜ条坊制宮都の建設を目指したのかを解明するうえで大きな役割を果たすに違いない。いわゆる「藤原京」(新城)の京域論は、小澤毅、中村太一両氏の唱える10条10坊説[小澤1997][中村1999]で決着したかの感があるが、筆者は、仁藤敦史氏が説くように[仁藤1999]、藤原京の京域は文武朝の大宝令施行以後と考える。王権の発展段階や後述する中国の都城制の変化の過程[渡辺2000]から、まだまだ10条10坊説は議論すべき点を多く含んでいると言える。日本の宮都成立の研究が再び活発になることを念じてやまない。

 「木簡学会」でも、出土したばかりの難波宮北西部の紀年銘木簡の報告がなされた[江浦1999]。前期難波宮の所属時期に関する問題に決定的な資料であるとの認識が大勢を占めた。木簡を検討した栄原永遠男氏はこれらが難波長柄豊崎宮のものであることを指摘するだけでなく、出土位置が宮の機能の充実ぶりを示すものであることを詳細に論じている[栄原2000

 地方官衙論では、昨年度、古代学協会四国支部によって初めて南海道の官衙遺構研究会が開催されるなど[古代学1998]、各地で精力的に研究会が開催されており、さらなる進展が期待される。

 早くも26回を数える「城柵官衙遺跡検討会」が、「陸奥国南部における郡家の特質」と題する特集を組んで、福島県を中心とする陸奥国南部の7〜8世紀の官衙遺構の検討がなされた。現時点における関連資料が考古学、文献史学両分野から精力的に集められ、一書としてまとめられ、今後の研究の基礎資料をも提供する素晴らしい成果が提示された[城柵2000A/B]。基調報告の二本は重要な指摘を行っている。荒木隆「郡家の構造を中心として」では、陸奥国南部の郡家が阿武隈川との密接な関係の下に成立していることを明快に論じた。菅原祥夫「郡衙周辺からみた陸奥国南部の変化」では、これまでとかく陥りがちであった古墳時代研究と歴史時代寺院・官衙研究、或いは、東北蝦夷研究と律令国家東北支配研究の分裂を見事に結合させた発表であった。古墳、豪族居館、集落、寺院、評衙、郡衙そして東北では蝦夷集落、これらが相互に何時、如何なる形で成立、変化するのか、その様相が歴史的に如何なる意味を持つのかを見事に描写している。頭書に示した船田中道遺跡の評価もこうした視点があったればこそであろう。蝦夷支配の様相についても、研究が積み重ねられており([菅原2000])、さらなる展開が期待される。

 「西海道古代官衙研究会」も第3回を迎え、頭書に示した元岡遺跡の製鉄遺跡群など、最新の成果が精力的に報告された。同研究会では、前年末に開かれた第2回大会(20002月)で、坂上康俊「文献史学からみた郡と郷の在り方」が発表され、詳細な研究史が示されるとともに、追究すべき課題が明確化された。本年度の元岡遺跡の成果は、大宝年間における地方の官衙的遺跡の実態を示す貴重なものであった。

 ところで、古代の歴史考古学の立場からは、成立期への関心は高いものの、転換、変貌していく8世紀末以降には低く、調査資料も数少ない。西海道に限らず、全国の遺跡で、当該期の研究が急がれる。もっとも、当該期の考古学的な研究の遅れの最大の原因が、正都平安京の成果がほとんど刊行されていない点にあることは何度も指摘しているところである[山中1996]。

 奈良国立文化財研究所・山中敏史氏主催の恒例となった地方官衙研究会は、本年度「郡衙正倉の成立と変遷」と題して3月に行われた[奈文研2000A/B]。文献史学からは舘野和巳「官稲の起源とミヤケ」、小口雅史「田租・出挙制の成立と展開」、川原秀夫「平安期における穎穀収取と正倉」と題する最新の研究成果が示された。舘野氏からは評成立以前のミヤケ制からみた稲収取の在り方が示され、中央、地方の収蔵施設(倉庫)に一定のイメ−ジを得ることができた。小口氏は、田租・出挙制の成立過程を論じて、それまで穎稲の形態で収取されてきたが、条里制の整備によって統一的な令制田租の徴収が可能となり、田租の穀化、蓄積という方向が進められたという。令制以前の正倉と以後のそれに違いのあることが予想できた。川原氏は穎穀収取形態の変化が正倉の設置や構造にいかなる影響を与えたかについて示唆に富む見解を示された。これらの文献史学の成果をいかに受け止め、発見された遺跡の解釈に生かすかが問われる。そのなかで、中島広顕「武蔵国豊島郡衙の正倉−御殿前遺跡−」は、御殿前遺跡の正倉院が、8世紀を境として確立する正倉院のモデルとなる規模、構造を持ち、その成立の背景などに考古学の立場から発言を可能とすることを例証してみせた。

 年代論では二つの大きな研究会が開かれ激論がかわされた。

 帝塚山大学考古学研究所と古代の土器研究会共催のシンポジウム「飛鳥・白鳳の瓦と土器−年代論−」は、大きな開きのある瓦研究者と土器研究者との間の年代の溝を埋めようとする精力的なものであった。山路直充「東日本の飛鳥・白鳳の瓦について−下総龍角寺と尾張元興寺−」や花谷浩「畿内の飛鳥・白鳳時代の瓦とその年代−大和を中心に−」、菱田哲郎「瓦の年代決定法−西日本を中心に−」は、文献史料に記載される寺院の初現時期と綿密な笵傷の進行との検討から関係瓦の年代観を分析するという手法で徹底しており、論理展開が整然としていた。これに対して、尾野氏の編年に立脚して新たな歴史像を描こうとしている畑中英二、大林達夫、福田明美の三氏の報告は、尾野氏の論理展開にはとても及ばず、結論先にありきとの感を否めなかった。今少し冷静に、ある説を補強するためにではなく、自ら新たな編年を構築するつもりで、既説にとらわれない厳密な論理による報告をすべきであろう。仮説は一度で完成するとは限らない。修正を加えつつ完成する場合が一般的である。そのためにも、自らの扱う資料に正面から向き合う必要があろう。こうした中で、山村信栄「筑紫における7世紀土器編年と実年代の諸問題」、渡辺一「東日本の飛鳥・白鳳時代の土器について−北武蔵を事例に−」は、論叢に拘らないせいか、新鮮であった。

 奈良国立文化財研究所主催の「「畿内産土師器」研究会」も盛会であった。南は九州から北は東北まで、全国の「畿内産土師器」を一堂に会して、その年代、搬入、成立の背景を読み解こうとする姿勢は、タイムリ−な企画だあった。「畿内産土師器」は林部均氏の一連の精力的な研究によって一躍注目を浴びることとなった土器群であるが、氏の研究以後の資料の増加、新たな視点からの研究の進展によって、各地の資料の再検討を試みたものである。近年では、「畿内産土師器」が地方の遺物の編年の基準に用いられることも多く、地方出土のものが本当に畿内「産」なのか、それとも畿内「系」なのか、或いは畿内「模倣」なのか、これらを現物も持ち寄って厳密にしようとの姿勢も示され。会場は熱気で溢れていた。ただし、会場に持ち寄ってもなお、畿内産か否かの結論は出されず、各研究者の「解釈」が示されるに留まった点は、残念であった。その原因の一つに、畿内産そのもの、即ち飛鳥・平城各五期の土器型式の生産地別の諸特徴の整理が進んでいないという点があげられる。その様な中で、中島恒次郎「地方における「畿内産土師器」の影響」や北野博司「北陸の7〜8世紀の畿内産土師器」など地方の研究発表の多くが、在地産土師器の徹底した分析結果から、「畿内産土師器」との諸属性の違いを明確化し、その成果を基に「畿内系土師器」を認定する作業を行い、さらに歴史叙述を加えており、注目された。しかし一方で、「畿内産とはちょっと感じが違う」、「畿内産と断定できないのだから畿内産の年代は使えない」等の感覚的主張も未だになされており、課題を残した。

 特定分野での研究では、古代交通研究会が開かれ、その成果が『古代交通研究』第9号として刊行された。近年数多くの事例を確認し、点でしか分からなかった古代地方官衙が網の目状に繋がるようになってきた。古代交通研究会の最大の成果であろう。中でも関東地方を中心とした精力的な調査、研究は目を見張るものがある。本年度も、5例の事例が報告されている。同号の中で森公章「高知県香美郡野市町下ノ坪遺跡とその性格について」は、事例の積極的な位置づけを、文献史料を駆使して行っている。森氏は古代駅路を検討した上で、下ノ坪遺跡を第2期駅路の津と判断し、その由来を遺跡の立地と地名などから在地郡領氏族である物部鏡連氏の私的な津とした。近年、文献史学からの考古資料の積極的な採用による遺跡の歴史的な評価が進んでいるが、本例もその好例の一つであろう。その他拙稿では、近年著しい資料の増加がみられ、その形成年代も明らかになりつつある多賀城の方格地割について検討した。

 この他、考古学研究会、日本考古学協会大会、たたら研究会などが行われたが、古代に関する発表などはなかった。

 

 3 雑誌・論文集・著作

 

 近年多くの論文が発表され、古代の考古学研究は活況を呈している。ここでも、宮都論、地方官衙論、年代論、その他に分けて検討してみよう。対象論文には考古学の資料を用いたり、古代の考古学に関連する文献史学のものも撰び、検討した。

(1)          宮都論・王権論

 初現期の宮中枢部の変遷について仁藤敦史氏は、小墾田宮で復原される庁を官人全体の場ではなく、大臣、太夫ら、有力臣下の入る場と規定した。ところが浄御原宮では南東にエビノコ郭が出現する。これを外安殿=大極殿=庁=朝庭と解釈し、天皇は初めて出御し、群臣と対面する場を設けるとする。しかしこの段階でもなお、庁に入れるのは親王や一部の有力な官人のみと考えた[仁藤1999A]。一方、林部均は、朝廷をエビノコ郭の南に求め、一部検出されている建物を朝堂と考えた[林部1998]。仁藤氏の前期難波宮=天武朝難波京説は先の資料により再検討が必要となったが、飛鳥浄御原宮の中枢部の解釈は林部氏の案には無理があると考える。私見では、飛鳥浄御原宮はあくまで仮のものであり、天武は新城の中に宮城を求めており、その中に後の藤原宮城の構造を想定していたものと解釈している。

 前期難波宮については先の木簡の検討をした栄原氏の研究によって、これが孝徳朝のものであることがより明確になったが、他に、植木久氏は、前期難波宮中数部の建物群に多数検出される“小柱欠”について再考察している。結論的には前稿と同じ木製基壇説を採り、木製の外側にさらに木製の外装基壇があったとする。その素材がないだけに釈然とせず、前稿のままでも問題はないと思える。

 この他、難波津に関する論考二点がある。長山氏は難波宮南西の住友銅吹所付近を視野に入れ、前田氏は、“難波津“を難波の津の総称と捉えつつも、高麗橋付近を最適とする[長山1999][前田1999]。難波宮城の構造からみれば津が北部に位置することは疑いないのではなかろうか。西方倉庫群外の北西部から検出された石組み池や、「戊申年木簡」の出土した低湿地の状況などは、物資運搬のル−トが北西部にあったことを物語っている。

 「藤原京」の構造については、小澤毅・中村太一両氏の唱える10条10坊説を支持する意見が多いようだが、これに真っ向から反論するのが仁藤敦史氏である[仁藤1999B]。その後の論文で中村氏は、「藤原京」が不完全な都ではあったが10条10坊の「理想」の都を目指したとしており、基本的に論点に変化はない[中村1999]。この他、竹田政敬氏は、9条10坊の京域復原を提唱した[竹田2000]。私見は仁藤氏を支持するほか、飛鳥藤原地域一帯に方格地割が形成されつつあったと考えている。その系譜は、新羅王京・慶州にもたどることが可能である[田中1992]。百済王宮と飛鳥との関連性は、王宮の周辺に基幹道路が設けられていた点に認められる。

 藤原京内に所在したと文献史料が伝える「京内廿四寺」について花谷浩氏が詳細な分析を行った[花谷2000]。これまでにも岸俊男氏が倭京の範囲を推定するための資料としてこれを活用し、大脇潔氏は天武9(680)年発願の薬師寺以前の様式の瓦を持つ寺院を分析してこれを比定した。大脇氏の研究を基礎に、さらに瓦の詳細な検討を加え、『日本書紀』などに出る寺院名との比定を重ねたものである。同論文において花谷氏は、これら京内二十四寺が当時の有力氏族の氏寺であった事実を基に、天武9年段階の「京」が彼ら有力氏族の居住空間であったのではないかとの重要な指摘を行っている。「藤原京」の構造論争については既に紹介したとおりであるが、宮都の都市性はこの様な宗教施設の在り方からも検証されなければならない。なお、花谷氏の論考は、先の「飛鳥・白鳳の瓦と土器−年代論−」シンポジウムにおける瓦研究からの年代観の大きな支柱になっている。

 この他、飛鳥池遺跡出土の富本銭をめぐって、厭勝銭なのか、貨幣なのかについて様々な角度から見解が展開され、目が離せない[松村1999][東野1999][今村2000]。

 平城京に関する論考は今年度少ない。金子裕之氏は、長岡京「北苑」の調査成果を受けて、日本の古代宮都における後苑の在り方について論じた[金子1999]。金子氏によると、長岡京での「北苑」の発見によって、日本の古代宮都は一貫して後苑を配置していたこと、長岡京以後方形に変化すること、平安京に入り、年中行事の場と生産の場が分離され、前者は神泉苑となり京内に取り込まれた、とした。「北苑」が方形か否かについては異論があるが、古代宮都の質を考える上でも重要な指摘であろう。

 森公章氏は「二条大路木簡」の鼠進上木簡を検討し、京職と中央官司たる主鷹司との関係について論じた[森1999]。都市社会史的観点からも、都市における環境や鼠捕獲の体制など興味深いが、先の「藤原京」の構造の検討でも度々出てくる坊令(条令)が、鼠捕獲の役割を担っていたという指摘は、中村太一氏の論考を批判した仁藤敦史氏の指摘−坊令は、左右の条を単位とする−とも関連し重要である。

 長岡京に関しては、岩松保氏の新たな条坊制論が展開されている[岩松1999]。岩松氏は、前稿以後の新たなデ−タ−の分析から新稿を起こしたものだが、拙稿[山中1992]以来の課題である@右京西二坊周辺の問題、A南部東西条坊の規則性、B北部北一条大路周辺以北の規則性については依然として課題が残された。この様な状況を「長岡京の不完全性の証拠」だとして一周するのではなく、「平城京とは異なる条坊制を採用して、なぜ山背国に新都を建設しようとしたのか」、という視点を持ち続けるべきであろう。どんなに発掘調査を続けても完璧にはならないデ−タ−から、いかに論理的に施工者の意図を探り出すか、これが求められている。社会学者藤田弘夫が指摘するように[藤田1993]、「新たに都市を建設する場合、都市に必要な諸機関を建設することよりも、新たな都市の建設の同意を得ることの方が困難である」のだから。400年以上も日本列島の中枢であった大和の地を離れ、山背に首都を置くことの困難さは、長岡京建設のために桓武天皇が採った諸戦略から明かである[清水1997]。

 平安京についても条坊制施工の具体的な方法の解明が網伸也氏によってなされた[網1999A]。延喜式京程条の記載を丹念に追い、二条大路設計方法に新たな視点を導入することでもって、見事に整合的な「平安京実施設計図面」が再現された。今後は、この「設計図面」と遺跡として残る実際の施工実態とがいかに整合的なのか、相違するのかが解明されなければならない。平安京は京程条という形で条坊の具体的設計デ−タ−が文献史料に残る唯一の都である。しかし、その一方で発掘調査による膨大なデ−タ−は未公表のままである。公表されていない条坊デ−タ−が提示されたとき初めて、網氏の解明した「実施設計図」と現実との乖離の程度を知ることができるのである。ところで網氏は、平安京の「実施設計図面」が異なる基準ではあるが、予め定められた基準線を基に施工されていることをもって拙稿を批判している。分割型条坊制と集積型条坊制とは、土木工事の方法の差を示すものではなく、町作りの基本理念の違いを表す概念である。宮城を優先し、宮城に至る道路を優先するが故に、平城京以前の条坊制は、均等に割り付けた基準線から道路を割いたのである。これに対し、長岡京以後の条坊制は、宅地規模の一定化に主眼を置いたため、均等な基準線では実施設計図を作ることができなかったのである。実際の道路工事において基準線を定め、そのラインから等距離に溝を掘削することと宅地を割いて条坊道路を設定することを混同してはならない。長岡京以前と以後では都市作りの発想が全く変わっているのだということを理解しなければならない。「実施設計」の解明は極めて重要な課題であるが、その結果できた宮都が、なぜその様な形態や構造をとったのかという視点がなければ、考古学は歴史学からますます遊離していくことになる。後述する諸論考も含めて、近年の考古学研究の方向は、あまりに細かな分析学に留まり、歴史叙述を放棄している。考古学は扱う資料や方法論こそ違え、歴史学なのだということを片時も忘れてはならない。

 高橋照彦氏は、西弘海氏によって提唱された「律令的土器様式」論[西1986A]の再検討を通して、考古学の立場からいかに歴史叙述できるか、しなければならないかを主張している[高橋1999B]。「律令的土器様式」の検討が各地でなされればなされるほど、その実態は、「律令的」とはひとくくりにできないことを明らかにした。ではその考古資料の明らかにした「実態」はいかなる歴史を物語っているのか、これを語るべきだというのである。土器研究を進める高橋氏の提言だけに重みがある。その実践的研究として土器の流通と消費から京の内外を検討した成果がある[高橋1999A]。平安京内外の土器組成を通して、都雛の格差の成立について論じたものである。長岡京以前の京と周辺との格差の評価には疑問を感じるが、考古資料が、律令に規定する京の内外を検証する有力な材料になることを示している。

 考古資料を文献史学の立場から検討した成果も多くある。中でも、吉川真司氏は長岡京で発見された宝幢遺構について、豊富な文献史料からその設置方法を解明した。平城京の事例も含めて検討した上で、長岡京での宝幢の設置が、「壮麗な朝廷儀礼に適した理想的宮室への回帰」であるとした。「難波長柄豊碕宮に始まる律令制宮都の歴史を継承しながら、文明化の新段階に即した〈平安時代的な宮廷〉へと第一歩を踏み出した」のが長岡宮であり、宝幢遺構もその流れのなかで位置づける必要があるとした[吉川1999]。吉田歓氏は、日本の天皇聴政には二種類あり、大極殿での聴政は象徴的なもの、内裏での聴政は実質的なものであったとした[吉田1999]。西本昌弘氏は平安京宮城十二門号について新たな知見を提示している[西本1999]。特に、藤原、平城陵宮にみられる「小子門」を宮城門の対象から外し、それ以外の東面四門の門号について検討した。ただ、的門と郁芳門の関係については説得性に欠ける。櫛木謙周氏は平安京の宅地売買について文献史料から詳細な検討を加えている[櫛木1999]。これら宅地の調査事例がいくつか知られ、櫛木氏の研究成果を活かし、被売買地の生活実態などについて検討したいものである。浅野充氏は羅城の有無という視点から、日本の宮都と中国の都城を比較し、日本の古代宮都は行政区画を独立させ、京職を置くことによって、内外区分を明示したと指摘する。その背景に一般京戸を確保する目的があったという。

 ところでこの様な優れた論考の一方で、考古資料を自分の解釈に都合のいいように操作し、報告書に記された記載をも曲げて自説を展開するような乱暴な議論も見受けられた[小倉1999]。少なくとも報告書の事実認定に疑問があるなら、実物に当たるか、せめてその根拠を明確にしてから(当然の資料批判を行った上で)用いるべきであろう。

 本年度は『瓦衣千年−森郁夫先生還暦記念論集−』(森郁夫先生還暦記念論集刊行会編1999年)が刊行され、宮都に関しても遺物の研究から数多くの論考が示された。上村和直氏は、都城から発見される埋納遺構を集成してその意味について考察し[上村1999]、木村泰彦氏は、近年事例の増加した「甕据え付け穴をもつ建物」について自説を補強し[木村1999]、金田明大氏は宮都における土師器と須恵器との関係について論じ[金田1999]、植山茂氏は平安時代の官瓦窯について論じている[植山1999]。その他多くの論考が一挙に提示され、個別遺物の研究だけは大いに進展した。ただ、それらの成果が律令国家の社会、経済、文化などといかなる関わりをもったのか、その点にまで踏み込んだ議論は少なかったように感じた。

 この他、山田邦和氏は平安時代天皇の陵墓について、北康宏氏は律令陵墓祭祀について論考を発表した[山田1999A/B][北1999]。懸案であった桓武天皇柏原陵について、山田氏は独特の方法で新たな治定地を提示している。黒崎直氏は、都市史的側面から宮都のトイレについて検討した[黒崎1999]。平林章仁氏は、万葉集に登場する城上について考察する[平林1999]。 

 

(2)          寺院研究

 『瓦衣千年−森郁夫先生還暦記念論集−』(森郁夫先生還暦記念論集刊行会編)には、寺院並びに出土瓦の研究が26編載せられている。その全てを紹介する紙幅がないので、ごく一部について近年の研究動向とあわせてみておきたい。

 先のシンポジウムでも紹介したとおり、寺院研究の一つの柱は、初期寺院の創建とその系譜の解明にある。本論集でも9本の多くの論考が初期寺院に関するものであった。

 網伸也氏は山背国の大宅廃寺の資料を再検討し、造営が二段階に分けて行われたことを明らかにした[網1999B]。伊藤敬太郎氏は、新城の範囲検討に使用される天武9年の京内二十四寺の一つである大窪寺の所在地比定を行い、併せて新たに現神武陵一帯に山本寺の存在を明確にした[伊藤1999]。大脇潔氏は巨大な塔心礎の発見された尼寺廃寺の寺名比定に取り組む[大脇1999]。結論は慎重だが、飛鳥池遺跡出土木簡にも記載のみられる般若寺(片岡尼寺)と推定し、その建立関係者として茅渟王の後裔大原真人を挙げる。亀田修一氏は武蔵国に分布する朝鮮系瓦を分析し、それらが古墳時代以来朝鮮関係資料を出土する地域に集中することを指摘した[亀田1999]。前代以来の伝統が古代寺院建設にも及んでいたのである。渡来人居住を証明する材料がさらに増加したことになる。瓦吹堅氏は、常陸国北部の大津廃寺と同型の瓦を出土する陸奥国南部の状況から、8世紀前半に分国、併合を短期間に繰り返す石城、石背、陸奥、常陸の各国との関係を想定する[瓦吹1999]。ただ、大津廃寺の創建瓦は7世紀第4四半期に遡る可能性が高く、とすると、むしろこれらの関係は、天武朝の評衙建設と機を一にしている可能性が高いのではなかろうか。特に後述するように、根岸遺跡は、7世紀後半に評衙を建設し、その付属寺院として夏井廃寺を建立している。周知の通り、陸奥国磐城評は、常陸国多可郡から分かれて立評し、磐城臣氏(磐城阿倍臣)氏や丈部(磐城多臣)氏が評督や助督に任命されたところである。古くから常陸の国との国境に位置し、関係の深いことが知られる。天武朝に進められた評衙の建設、付属寺院の建設と瓦の親縁性は無関係ではなかろう。同様にして黒澤彰哉氏もまた、新治廃寺の瓦分布と天武14年詔との関係を指摘している[黒澤1999]。花谷浩氏は、東南禅院の瓦を検討する[花谷1999]。「憶測」として示される同笵瓦分布遺跡と文献史料などから復原される道昭との関係叙述は見事である。氏の瓦研究の考古学的な蓄積と、文献史料に対する深い理解が、まるで数式を解くように語られていく。なお、山崎院前進寺院である山崎廃寺と鳥坂寺との関係について藤田さかえ氏が指摘している[藤田1991]が、同瓦は家原寺や智識寺など河内、和泉の寺院とも多くの同笵瓦を持っている。行基と関係の深い家原寺の瓦があることは道昭との関係を暗示するのかも知れない。なお行基建立とされる頭陀院=菩提院について吉川真司氏は考古資料、現地踏査などを踏まえて添下郡西端の菩提山に想定した。その上でなぜ菩提院が岡本の地に創建されたのかについて考察した[吉川1999A]。吉川氏はこの他に、東大寺境内において自ら発見した東大寺丸山西遺跡を、考古学、歴史地理学、文献史学など多方面からの分析によって、山房・金鐘寺と推定した。この他、東大寺創建以前の瓦の散布する二地区を福寿寺、辛国堂跡に比定した。これによって「興福寺から東大寺へ」という流れを示した[吉川2000]。本来、考古学が行うべき作業であるが、先の菩提院の研究も含めて、吉川氏ならではの成果と言えよう。この他、史跡整備という行政的課題の中で検討された筑前国分寺に関する中島恒次郎氏の労作がある[中島1999]。

 三舟隆之氏は、山中敏史氏の研究を基礎に東国の地方寺院と郡(評)衙の関係を検討し、そこに何ら特殊な様相が認められないことをもって、7世紀後半に全国に建立される寺院が王権の仏教推奨政策の下、地方豪族が仏教のもつ呪術力によって、再編された共同体内の結合を強化しようとした結果であると説いた[三舟1999]。しかし、もしその様な地方豪族の仏教に対する深い理解の基に寺院建立が実施されたとするなら、瓦分布や建立時期に個性が認められるのではなかろうか。むしろ分析の結果は、王権の奨励策に促されて寺院が建立されたとみた方がよいように思う。この他、上杉和央氏は、飛鳥。白鳳の寺院の立地をコンピューターによって解析するが、分析の目的や結果の意味することがよく理解できなかった[上杉1999]。                                              

 

(3)          地方官衙論

 地方官衙論は先のシンポジウム以外は比較的低調であった。

 門井直哉氏は、『出雲国風土記』や発掘調査事例を基に郡家がいかなる立地にいかなる目的で建設されたかを明らかにした[門井2000]。それによれば、国府建設以前の郡家は、広域交通の便に配慮して建設されたという。「広域交通」や「郡内交通」の規定が明確でなく、考察には納得しがたいが、国府建設が郡家にいかなる影響を与えたのかについて考古資料や歴史地理的資料を用いて分析しようとする姿勢は尊重されるべきであろう。なお、田阪仁氏は、出土墨書資料を通して斎宮寮の職制を検討する[田阪1999]。

 事例研究としては大上周三氏の相模国高座郡の分析[大上2000]、瓜生秀文氏の怡土城の土塁の分析[瓜生1999]、廣田五男氏の水城の施工技術の解析[広田1999]、などがある。

 また、交通に関しては、穂積宏昌氏の紀伊半島東岸部の海上交通に関する研究[穂積2000]、久保田昇三氏の南海道航路の分析[久保田1999]、拙稿の斎宮交差点の分析[山中1999]などがある。

  

(4)          年代論

 尾野編年の提示が7世紀の全国の考古資料の再検討を促していることは先に見たとおりである。繰り返しになるが敢えて付言するなら、尾野編年はあくまで一つの大胆な編年案であって、定説ではないということである。考古資料を見直し、これまでの編年観を原点に立ち返って再検討し、歴史叙述をも含めて点検してみようという提案と私は受け止めている。

 その実践の一つが木本元治氏による作業である[木本1999]。木本氏は、横山編年から最新の畑中編年[畑中1997]まで詳細に再検討し、その可否を明らかにしている。その上で東北の土器編年の再整理を行い、自説を提示している。特に畑中編年に関しては、「どのよなものを一括として扱う」のかという「考古学の基本的方法に欠陥がある」と厳しく批判している。実年代の設定についても、紀年銘木簡の干支を安易に一巡下げる手法を論断している。考古学資料論、年代論に関わる重要な指摘である。

 ところで尾野氏は、三重県の古墳出土の押出仏を使って自説の補強に努めている[尾野1999]。遺物の出土状態などを再現し、出土須恵器と押出仏との同時性を指摘し、押出仏製作の歴史的背景をも考察する大変興味深い論考である。敢えて苦言を呈するならば、鳥居古墳のような調査状況なども今ひとつ明らかでない資料を使うのではなく、報告書のあるより明確な資料から自説の補強をはかるべきであろう。

 土器研究の成果としては、中島恒次郎氏他による小値賀島の成果が興味深い[中島他1999]。五島列島の中心島である小値賀島での出土資料を、主に島外の資料と比較しながら年代比定し、その出土の意味づけを行おうとするものである。課題にも述べられているように島内での土器属性が明瞭になれば、さらに日本原始・古代史の中に位置づけることが可能なことを示した論考であった。見習うべきであろう。

 

(5)          その他

 遺物各論や遺構各論、地域研究など様々な研究成果が発表された。ここに紹介するのは筆者の入手し、気がついたそのごく一部である。数多くの優れた論考を見落としているに違いない。また、読むことのできた論文も紙幅の都合で全てを評価し、紹介することができなかった。お許しいただきたい。

 堀田孝博氏は鉄製紡錘車普及の意義について神奈川県の事例を基に考察した[堀田1999]。荒木志伸氏は墨書土器を土器の諸属性から分析した[荒木1999]。小林義孝氏は『古代文化』の特集号で古代墳丘墓研究の見通しを述べると共に、土師の里古墓の分析から自説を展開している[小林1999A/B]。

 なお、国立歴史民俗博物館では、日本古代印の基礎的研究がなされ、考古資料、伝世品の集成が全国規模で実施された。その成果を踏まえて収集に携わった23名の研究者が古代印論を展開している[歴博1999]。一々紹介する余力はないが、現時点における古代印研究の総集編と言える。中でも、田路正幸氏の考古資料としての研究は見応えがある[田路1999]。 

 文献史学では、木簡を使った研究が数多くなされた。八木充氏による長登銅山出土木簡の分析が興味深い[八木2000]。古代における銅の需要は鋳銭司の他、中央の律令官司、地方官衙など所定の官司以外にも大仏の建立や各地寺院における仏像の製作、各官司の銅印の製作など多岐にわたり大量であった。ところがさらに木簡の分析によれば、豊前門司や官人層にも配分されたという。長屋王邸木簡でも知られるように、奈良時代初期から、少なくとも高級貴族層は、自ら銅器生産を行う能力を有していた。その原材料の調達先については明瞭ではないが、長登木簡は可能性として、官採銅が充てられたことを示しているという。古代律令体制下での物資流通の一側面が明らかにされた。清水みき氏は長岡京出土の告知札を中心に日本の告知制度について新知見を示した[清水1999]。

  

 4 保存問題

 

本年度は実に多くの遺跡保存問題が起きた。その背景には、バブル経済が破綻し、業績中心主義の企業、行政が、文化の保護に目が回らなくなったことがあるように感じられる。もっとも、バブル最盛期に破壊された長屋王邸は、バブル崩壊後の2000年、その原因者たる「そごう」の破綻により、調査当時、破壊の根拠とされた「国民経済のため」という前提があっさり覆され、破壊の爪痕だけが残った。経済至上主義がいかに日本の文化や伝統を破壊するかを象徴する出来事であった。

 遺跡保存問題については勅使河原彰氏による詳細な問題提示がある[勅使河原2000]。筆者も長岡京東院の保存について、新聞各紙、関係雑誌に問題提議したことがある[山中2000]。

 さて、保存されることとなった飛鳥亀石、平安京斎宮園池と、破壊されてしまった飛鳥池遺跡、長岡京東院との間にはいかなる違いがあるのであろうか。この総括をしておかなければ、数年の内に必ず問題となる平城京地下へのバイパス建設という破廉恥な攻撃に有効な反撃を加えることはできないであろう。

 これらの遺跡は3件が公共事業、1件が民間の開発に伴う事前発掘調査であった。調査組織は、3件が地方公共団体及びその外郭団体、1件が、地方公共団体の外郭団体と民間の調査機関との併行調査であった。開発の目的は、道路工事、ミュージアム建設、学校建設、高層ビル建設などまちまちである。ただし、飛鳥亀石は、道路拡幅工事であり、基本的に遺跡下に及ぶ大規模掘削は伴わない工事であった。調査期間は、飛鳥池遺跡が最も長く2年以上に渡り、他は、半年から1年以内の比較的中程度の期間の調査であった。もちろん発見された遺跡は全て特別史跡級の極めて重要なものばかりであり、純粋に学問的評価を行えば、当該年度指定の史跡に優とも劣らない遺跡ばかりである。保存の決まった2遺跡は特に保存運動などが展開される前にほぼ保存の方向が決められ、署名活動や要望書提出は目立って行われなかった。これに対し、破壊の決定された両遺跡は全国規模の例を見ない運動が展開され、数多くのシンポジウムも開催され保存の意義は十分に国民に周知されたと想像できる。そこで以下、破壊された遺跡の問題点について若干検討しておこう。

 東院と飛鳥池遺跡とに共通していることは、指導に当たるべき当該府県の意欲であろう。一方は当事者であり、もう一方は原因者が民間企業であるという違いはあるが、改訂された文化財保護法では、都道府県や政令指定都市に極めて大きな権限が渡されたにもかかわらず、その権限を持った行政が、文化財保護法の主旨を十分活かして指導に当たらなかったのである。文化財行政において地方分権がいかに問題多い措置であるかを示すことになった事例である。いずれの事例も、文化庁は積極的に、財政補助も含めて保存の方向を打ち出したときく。にもかかわらず、保存の協議はほとんどなされないまま一方的に原因者の思いのままに破壊されたのである。即ち、2件の破壊事例の最も大きな問題は、従来しばしば指摘されてきたような権限でもなければ財政でもなく、権限を持った行政の姿勢にあったのである。曲がりなりにも国は全国の遺跡の保護・保存を検討すべき委員会を設置し、極めて優秀な専門技官を配置し、その対応を行ってきた。しかし、47都道府県のその体制は一律ではなく、全く足並みが揃っていないのである(ただし、奈良県や京都府は全国でも有数の遺跡地帯である)。今回の保存要求に対し、当該行政が問題を専門家に積極的に諮問した形跡はほとんどない。この様な中で、行政が責任ある対応を行えるとはとても思えないのである。悲劇の最も根本的な原因はここにあると考える。一刻も早い全国一律の文化財評価体制、緊急対応システムの構築が求められるのである。もしこれができないなら、もう一度国に権限を返すべきであろう。でなければ第二、第三の飛鳥池、東院問題は限りなく引き起こされるに違いない。20世紀にあまりに多くの遺跡を破壊してきた文化財担当者の一人として、自戒の念も込めて強く望みたい。

 

 以上、4節を費やして1999年度の古代に関する考古学研究の動向について検討してきた。筆者の能力の問題もあって、その全てに触れることが出来なかった。さらに、誤読、誤解、非理解等論者の主旨とは異なる点からの評価をなしたものもあるかもしれない。その責は全て筆者にある。お許しいただきたい。ただし、重ねて言うが、先の「捏造事件」も含めて、今日の日本考古学会の抱える最も深刻な問題は、数多くの遺跡の報告書が未刊行であることである。報告書は、どんなに事情があろうとも、5年以内には刊行されるべきであるし、全ての資料は直ちに公開されるべきである。発掘調査で得られた資料は個人のものではなく、国民全ての財産であることを絶対に忘れてはならない。

 報告書刊行の社会的条件整備も含めて、日本考古学協会が最優先して取り組むべき課題であろう。

 

[文献註]

相原1999A     相原嘉之「飛鳥の道路と宮殿・寺院・宅地」(条里制・古代都市研究会『条里制・古代都市研究』第15号 1999年)

相原1999B     相原嘉之「小治田宮の土器−雷丘東方遺跡出土土器の再検討−」(『瓦衣千年−森郁夫先生還 

          暦記念論集−』森郁先生還暦記念論集刊行会編下『瓦衣千年』と略称 1999年)

浅野1999     浅野充「日本古代における都市形成と国家」(国立歴史民俗博物館『研究報告』第78集1999年)

1999        東潮「新羅金京の坊里制」(条里制・古代都市研究会『条里制・古代都市研究』第151999

年)

1999A     網伸也「平安京の造営計画とその実態」(『考古学雑誌』第84巻第3号1999年)

1999B     網伸也「大宅廃寺再考」(『瓦衣千年』1999年)

 

荒木1999     荒木志伸「墨書土器にみえる諸痕跡について」(『お茶の水史学』第43号1999年)

 

市川1998     市川理恵「8世紀における京職の財政とその機能」(『延喜式研究』第15号1998年)

伊藤1999    伊藤敬太郎「うつされた塔心礎−大窪寺と山本寺−」(『瓦衣千年』1999年)

今村2000    今村啓爾「無文銀銭の流通とわが国初期貨幣の独自性」(史学会『史学雑誌』第109編第1号

                        2000年)

岩松1999                           岩松保「長岡京条坊計画再論−大路付加型モデルの場合−」(大阪大学考古学研究室『国家形成期の考古学−大阪大学考古学研究室10周年記念論集−』1999年)

植木1999        植木久「前期難波宮遺構にみる建築的特色−いわゆる“小柱穴”遺構を中心に−」(財団法人 大阪市文化財協会『大阪市文化財協会 研究紀要』第2号 1999年)

上杉1999        上杉和央「飛鳥・白鳳期における寺院の立地について」(『史林』第82巻第6号1999年)

上村1999A     上村和直「平安京と白河」(条里制・古代都市研究会『条里制・古代都市研究』第151999年)

上村1999B    上村和直「都城における埋納遺構 −鎮祭遺構を中心として−」(『瓦衣千年』1999年)

植山1999     植山茂「平安時代中期の官瓦窯について」(『瓦衣千年』1999年)

瓜生1999     瓜生秀文「怡土城の土塁」(『地域相研究』第271999年)

江浦1999     江浦洋「難波宮北西部から出土した木簡」(木簡学会第21回大会報告 1999124日)

大上2000     大上周三「古代高座郡の支配機構の動向」(『神奈川考古』第36号2000年)

大脇1999     大脇潔「尼寺廃寺考 −尼寺廃寺とその周辺の古代寺院−」(『瓦衣千年』1999年)

 

小倉1999     小倉真紀子「古代地子制に関する一考察」(『日本歴史』第616号1999年)

小澤1997                           小澤毅「古代都市「藤原京」の成立」(考古学研究会『考古学研究』第44巻第3号 1997年)

尾野1998                           尾野善裕「中・後期古墳時代暦年代の再検討」(東海考古学フォ−ラム岐阜大会実行委員会『土      

           器・墓が語る美濃の独自性〜弥生から古墳へ〜』1998年)

尾野1999     尾野善裕「古墳から出土した押出仏」(『瓦衣千年』1999年)

 

金子1999     金子裕之「宮と後苑」(『瓦衣千年』1999年)

 

金親他1999    金親満夫・福田和浩・山崎頼人「大阪湾沿岸地域の古代における飯蛸壺の生産と流通」(『瓦衣千年』1999年)

 

門井2000     門井直哉「律令時代の郡家立地に関する一考察」(『史林』第83巻第1号2000年)

金田1999     金田明大「土師器に憧れた須恵器(『瓦衣千年』1999年)

亀田1999     亀田修一「武蔵の朝鮮系瓦と渡来人」(『瓦衣千年』1999年)

瓦吹1999     瓦吹堅「古代常陸国多珂郡の古瓦 −大津廃寺跡を中心に−」(『瓦衣千年』1999年)

 

1999     北康宏「律令陵墓祭祀の研究」(史学会『史学雑誌』第108編第11号1999年)

木村1999      木村泰彦「甕据え付け穴を持つ建物について」(『瓦衣千年』1999年)

木本1999    木本元治「七世紀土器年代観の諸問題」(『歴史』第93号1999年)

櫛木1999    櫛木謙周「平安京の宅地売買とその価格」(『洛北史学』第1号1999年)

 

久保田1999   久保田昇三「古代南海道航路と一墳丘複数横穴式石室墳」(香川考古刊行会『香川考古』第7号1999年)

黒崎1999    黒崎直「日本古代の都市と便所 考古学からみた古代のトイレ」(『歴史評論』第590号1999年)

 

黒澤1999    黒澤彰哉「新治廃寺の成立と画期 −新治廃寺跡出土瓦の分析を中心にして−」(『瓦衣千年』1999年)

 

小林1999A    小林義孝「古代墳丘墓研究の分析視角」(『古代文化』第51巻第12号1999年)

 

小林1999B    小林善孝「古代の個人墓と集団墓地 −河内土師の里古墓の検討から−」(『瓦衣千年』1999年)

 

栄原2000       栄原永遠男「難波宮跡西北部出土木簡の諸問題」(大阪市史編纂所『大阪の歴史』2000年)

清水1997        清水みき「桓武朝における遷都の論理」(『日本古代国家の展開』上巻 思文閣出版1997年)

清水1999     清水みき「律令政府と告知札」(『(財)向日市埋蔵文化財センタ− 年報都城10』1999年)

城柵2000A     古代城柵遺跡検討会『第26回古代城柵官衙遺跡検討会資料』2000219/20日)

城柵2000B     工藤雅樹編『第26回古代城柵官衙遺跡検討会資料 史料編』(古代城柵官衙遺跡検討会2000 年  

        219/20日)

菅原2000     菅原祥夫「平安時代における蝦夷系土器の南下〜蝦夷の移住をめぐって〜」(安部正光君追集刊行会『安部正光君追悼集』2000年)

竹田2000    竹田政敬「藤原京の京域」(古代学協会『古代文化』第52巻2号 2000年2月) 

高橋1999A     高橋照彦「土器の流通・消費からみた平安京とその周辺」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第78集 1999年)

高橋1999B     高橋照彦「「律令的土器様式」再考」(『瓦衣千年』1999年)

田阪1999     田阪仁「9世紀斎宮寮における「目代」の可能性 兼官事例を手がかりにした場合」(『史学論集』1999年)

 

田中1992                           田中俊明「新羅における王京の成立」(『朝鮮史研究会論文集』第301992年)

勅使河原2000   勅使河原彰「「行政」発掘と考古学研究」(歴史科学協議会『歴史評論』No598 2000年)

帝塚山1999      帝塚山大学考古学研究所・古代の土器研究会『帝塚山大学考古学研究所・古代の土器研究会共催シンポジウム「飛鳥・白鳳の瓦と土器−年代論−」』(199911)

東院2000A        「長岡京左京北一条三坊二町・三町跡〜左京第四三五・四三六次調査現地説明会資料〜」((財)向日市埋蔵文化財センタ−・(財)古代学協会・古代学研究所 200025日)

東院2000B        「長岡京左京北一条三坊二町・三町跡〜左京第四三五・四三六次調査 報道提供資料」((財)向日市埋蔵文化財センタ− 2000331日)

東院2000C        「長岡京左京北一条三坊二町・三町跡〜左京第四三五・四三六次調査 報道提供資料」((財)向日市埋蔵文化財センタ− 200052日)

東院2000D       「長岡京「東院」跡出土木簡速報展示記念講演会資料」((財)向日市埋蔵文化財センタ− 2000624日)

田路1999     田路正幸「考古資料としての古代銅印について」(国立歴史民俗博物館『研究報告』第79集1999年)

東野1999     東野治之「東アジアの中の富本銭」(市民の古代研究会『市民の古代ニュ−ス』197号 1999    年)

中島他1999    中島恒次郎・塚原博「肥前国西部(小値賀島)の食器」(中世土器研究会『中世土器研究』]W 1999年)

中島1999        中島恒次郎「筑前国分寺跡の規模と環境」(九州古文化研究会『古文化談叢』第421999年)

中村1999       中村太一「藤原京の「条坊制」」(吉川弘文館『日本歴史』第612号 1999年)

長山1999     長山雅一「難波津私考」(財団法人大阪市文化財協会『大阪市文化財協会 研究紀要』第2号 1999年)

奈文研2000A  奈良国立文化財研究所『研究集会「郡衙正倉の成立と変遷」報告資料集』200039/10日)

奈文研2000B   奈良国立文化財研究所『研究集会「郡衙正倉の成立と変遷」参考資料 郡衙正倉関連史料集 郡衙正倉遺構図集成』200039/10日)

西本1999     西本昌宏「初期平安宮にいたる宮城十二門号」(塙書房『古代社会の史的展開』1999年)

西1986      西弘海『土器様式の成立と背景』(真陽社 1986年)歴博1999  国立歴史民俗博物館『研究報告』第79集 1999

仁藤1999A    仁藤敦史「小墾田宮と浄御原宮」(『古代文化』第51巻第2号1999年)

仁藤1999B                 仁藤敦史「「藤原京」の京域と条坊」(吉川弘文館『日本歴史』第619号 1999年)

畑中1997     畑中英二「3近江」(古代の土器研究会『古代の土器研究―律令的土器様式の西・東5―』1997     

           年)

林部1998     林部均「飛鳥浄御原宮の庭と朝堂・朝廷」(『ヒストリア』1621998年)

林部1999B      林部均「藤原宮と「藤原京」 条坊制導入期の古代宮都の一様相」(『古代学研究』第147号1999年)

平川1999     平川南「古代地方都市論 多賀城とその周辺」(国立歴史民俗博物館『研究報告』第78集1999年)

平林1999     平林章仁「城上殯宮城上郡所在説考」(『日本歴史』第6181999年)

広田1999     広田五男「水城の土木施工技術について」(『福岡考古』第181999年)

藤田1991     藤田さかえ「乙訓郡寺院の7世紀の軒瓦」(京都考古刊行会『京都考古』第581991年)

藤田1993     藤田弘夫『都市の論理』(中公新書1993年)

藤原1999     奈良国立文化財研究所『藤原京研究資料(1998)』(19993月)

穂積2000     穂積宏昌「紀伊半島東岸部の古代港と海上交通」(三重歴史文化研究会『Mie HistoryVol.11 2000年)

堀田1999    堀田孝博「古代における鉄製紡錘車普及の意義について」(『神奈川考古』第351999年)

前田1999    前田豊邦「古代の難波津について」(財団法人大阪市文化財協会『大阪市文化財協会 研究紀要』      

        第2号 1999年)

松村1999    松村恵二「飛鳥井家出土の富本銭」(『考古学ジャ−ナル』442 1999年)

三舟1999    三舟隆之「古代地方寺院造営の背景 7世紀後半の東国を中心として」(『史学雑誌』第108編第10号1999年)

 

森 1999    森公章「二条大路木簡中の鼠進上木簡寸考」(『日本歴史』第615号1999年)

八木2000    八木充「奈良時代の銅の生産と流通―長登木簡からみた―」(『日本歴史』第621号2000年)

山中1992    山中章「古代条坊制論」(考古学研究会『考古学研究』第38巻第41992年)

山中1996    山中章「古代研究の動向(西日本)」(『日本考古学年報』47(1994年度版) 吉川弘文館1996年)

山中1999     山中章「斎宮の交通体系〜方格地割交差点の優先関係」(『(財)向日市埋蔵文化財センタ− 年報都 

        101999年)

山田1999A    山田邦和「桓武天皇柏原陵考」(『文化学年報』481999年)

山田1999B    山田邦和「淳和・嵯峨両天皇の薄葬」(『花園史学』20号1999年)

吉川1999A    吉川真司「行基寺院菩薩院とその寺田」(塙書房『古代社会の史的展開』1999年)

吉川1999B    吉川真司「長岡京時代の朝廷儀礼」−宝幢遺構からの考察−」(『(財)向日市埋蔵文化財センタ− 年報都 

         城10』1999年)

吉川2000     吉川真司「東大寺の古層―東大寺丸山西遺跡考―」(『南都佛教』第78号2000年)

吉田1999     吉田歓「天皇聴政と大極殿」(日本史研究会『日本史研究』第446号1999年)

 

渡辺2000    渡辺信一郎「宮闕と園林」(考古学研究会『考古学研究』第46巻第4号 2000年)